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上記1地獄谷の受入口から2の送水溝から3のぼって谷との合流と傍示川と星田大池に向かう細川への分流樋の位置関係

天保14年絵図では地獄谷川とぼって川の合流が現在の傍示川の南側で合流し、合流点の南側を掘削し地獄谷川と結んだと思えるので、その場合の明治41年地図の地形

3 地獄谷川とぼって川が矢印に従って流れてきて合流し、その時の水量に応じて仕切り樋の高さ以内の時は傍示川に架けられた水道橋を渡り細川から星田大池に流入し、青色の可動樋を越える水量はあふれて傍示川に流れる仕組みになっている

2 傍示川に沿ってきんもくせい老人ホームと建物沿いに造られた溝

1 傍示川の火薬庫倉庫に架かる橋の麓にある受入口、地中管を通ってきんもくせいの建物沿いの溝に高低差を利用して連結。

地獄谷側とぼって川の合流と傍示川と細川(星田大池への流入水路)に分流させる樋

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傍示川築造に関連すると思われる事象
 昔星田大池は、星田村が10日使用すれば、寝屋村が1日水を採取するという寝屋村 が星田大池に対して10分の1の水利権を持っていたことがある。その由来は不明で、建設費用の一部をを寝屋村が負担したのではないかとされているが、これは、星田大池の築造と西周りの傍示川の建設によって、古代の傍示川の際には通常の水流で下流側水利権を持っていたが、晴天時など通常時は星田大池で貯留し、降雨時のみ下流に流されるシステムになったため、その代替措置として寝屋村に水利権が発生したとするのが自然と思える。
また、星田駅の北側にある星田池は、最近まで魚釣池として使われていたが、この池は、敷地は寝屋村にあるが、星田村の飛び地になっていたと考えられ、村の境界は、星田池だけが池の中央になっているが、往時は、寝屋村の水利権の行使と星田側の利水にも使われていたのであろう



明治41年発行地図

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天井川の傍示川
今日の傍示川は、降雨時以外は水量がないが、これはぼって川には明治末期に完全閉鎖型の星田新池が築造されており、地獄谷川の場合も南星台地区などで大きなダム石堤の築造などによって上流での完全水量調節が行われているためであって、かっては傍示川も天井川であったとされている。

天保の絵図は、上段のへびが口をあけたようなものが西周りの傍示川で、上あごの部分がぼって川で,下あごの部分は地獄谷川である。両川の源流はぼって川は、川の上流の右にある山は頂上が馬が峯という星田山でさらに右にある満願池を含む一帯であり、地獄谷川はその上流にある山とその右にある2つの黄色く塗られた山で奥にあるのが小松山で手前の山は地獄谷尾根筋などの諸山である。上あごの部分には水門樋が描かれている。この樋は、ぼって川の谷水が降雨時などの水量の多い時は傍示川に流し、晴天時など平常時はなるとび水門樋から細川を通じて星田大池に流し、貯水していたのであろう。地獄谷川の水は、ろうけ水門樋で同様に、降雨時は傍示川に、晴天通常時は全て星田大池に貯水し、降雨時の水量の多い時には傍示川に放流していたのであろう。

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天保14年星田村絵図と西周りの傍示川

古代の傍示川というが古い時代の傍示川という意味で、星田大池の名称は、寛永14年(1637年)に星田村の記録に登場し、それ以前のことであるが、その時までは、傍示川は、小松山の北斜面を源流とする地獄谷川と星田山(頂上馬が峯)を源流とするぼって川が合流して、高岡山の東側の現在の星田大池のところを流れていたのが、星田大池の築造にあたって、西周りの傍示川を降雨時の水量の増加に備えたバイパス河川として、明治の2枚の地図で描かれている川を全く新規に築造し、この川が西周りの傍示川であるが、他方古代の傍示川が流れていたところに星田大池(池の大きさは最大時甲子園球場の1.5倍にあたる6町ー6ha.)を築造し、晴天時など水量が少ない時には星田の山谷水をすべて流入させるための河川として、池の貯水量の増大をはかろうとしたものである

テキスト ボックス:  現在の傍示川(西周りの傍示川)は、上流始点は地獄谷川とぼって川の合流地点で、下流は寝屋ムラになるとタチ川と名称が変わるがその間の川の長さは、縮尺図で見ると1300mぐらいある。(注参照)
元禄10年星田村絵図では、山根街道の下流にあたるところに不おじ川(傍示川のこと。)267間(480m)としていて、下流の寝屋村のタチ川に名称が変わるところまでの距離的にはほぼ合致し、また、星田大池の南側の現在の細川付近に不おじ川あれとして東西96間(173m)、南北77間(139m)の傍示川の洪水被害池を描いている。細川付近に昔、きつね川という川が流れていたとされ、星田大池築造以前の名称かも知れない。従って、元禄絵図では、不おじ川(傍示川)は上流は、不おじ川あれが描かれている現在の細川(きつね川)で、下流は山根街道から現在の傍示川かあるいは天保絵図のあまつげ川を経由して寝屋村のタチ川と結んでいたことになり、この時の傍示川は、まさに高岡山の東側を流れていたことになる。
この場合元禄絵図の山根街道から上流の川は、傍示川でなければ何を示しているかということである。1つは、前に定義した自然堤の川であり、2は、明治の地図で描かれている人工川である現在の傍示川であり、時期的に開通する以前の段階であったのであろう。

仮に2の人工川ができているとすると洪水被害地は、人工川の傍示川(現在の傍示川)周辺に分散され、この星田大池近くのきつね川付近で氾濫が起こらないのではなかろうか。


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元禄10年星田村絵図
  の不おじ川(傍示川)267間(480m)の謎

上記の左側の地図は明治18年測量。同20年製版の地図(以下「明治18年地図」という。)、および右側は明治41年の地図の土手で描かれた傍示川とその周辺の等高図を描いたものであるが、等高図は地形を表すものであるが、赤い線は逆U字の地形の最低点を結んだものであるが、両地図とも傍示川の位置が西側にずれていて、傍示川は自然の川でなく人工的に掘削し、築堤して造られたものであるということが判る。また築堤は明治18年の地図の場合は2重になっていて、2段階で後に増強して造られた可能性がある、なお、赤い線で書かれた川筋は自然の川筋で、天保絵図にも傍示川にそって書かれている川筋にあたるのであろう。なお、この明治の地図の地形の上から存在したと想定され、天保絵図には描かれている川を「自然堤の川」と定義しておく。

乱れた等高線の形から見た人工掘削河川である傍示川
 

 河川周辺の等高線の形は、日頃の水の流れや時には洪水、氾濫などの繰り返しなど、長年の水力によって河川の両岸の高低差は均一あるいは対称的など均衡で、つり合いがとれている場合が多いが、傍示川の場合は、左右不均衡で中には左岸と右岸があたかも斜め斜面に造られたような裨っこ形の等高図になっているところもあり、明らかに人工的に掘削によって造られていることが読み取れる。

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河川の天然地形の西側を流れる人工河川の傍示川

地図の等高線は山や尾根筋の場合はU字型で川や谷筋の場合は逆U字あるいは逆V字の形で描かれるとされている。山や尾根筋の場合は周辺より高度が高く、川や谷筋の場合は周辺より低い高度のため地図では必ずこのような形になるというのはルールのようなものである。

 
古代の傍示川と西周りの傍示川

明治18年測量・同20年製版地図
  印刷明治32年5月25日
調。

古地図、古絵図が語る傍示川

現在の傍示川は西周りに付け替えられたもので、もともと傍示川は源流である地獄谷川、ぼって川が合流し、高岡山の東側を流れており、みどり池からあまつげ川から傍示川に流入していたもの(以下「古代の傍示川」という。)である(まんだ72号和久田薫氏)という記述があるが、その詳細についてはわからない。このため、明治18年測量地図および明治41年の発行の測量地図、元禄10年の星田村絵図、天保14年星田村絵図から、古代の傍示川、源流の地獄谷川、ぼって川の配置や周辺の地形を調べて見ると、それらしい地形やまた絵図の中にそれにかかわる記述が存在しているので、これらを踏まえて古代の傍示川について考察してみる。なお古代というが、この意味は先代という意味で、現在の傍示川、つまり西周りの傍示川は、星田大池の築造は、開始の時期は不明確であるが、寛永14年(1637年)に星田村の星田大池の記述があり、元禄10年星田村絵図では1.3町(ha)と2割程度の大きさであることから、この池にからんで傍示川の大幅な改修が行われたと考えられることから、先代とはこの改修以前の時代を意味するものである。