第2表
第1表
星田の3領家と庄屋の元禄3年覚書
3 細川への水路橋と分水樋
傍示川橋の近くに造られた水路橋。晴天時は地獄谷川とぼって川(星田新池からの放流水)が合流し樋あるいは水路橋の容量を超える雨水は傍示川を流れ、容量内の雨水は細川に流れていく


2 地獄谷川の晴天時の溝明星老人ホームの排水路風に設置されているが、地獄谷川の晴天時の流路で3の細川への流路橋に設置した樋に流れている

元禄10年星田村絵図
星田村の3領主については、元禄3年の市橋、八幡、大久保3藩の領家と庄屋の覚え書きでは、領家(各藩)の石高、所属農家数の記載があり、元禄10年の星田村絵図では、領地の地図上の位置が記載されている。
また交野郡星田村地詰帳は文化5年の各藩の所属農家の請受農家の耕地筆数や石高を把握できる。


八幡藩の領域  

東高野街道と西の村の本通りに 面する六路地区は、100%全筆、玉江(たまこ)地区は、70%の20筆が八幡藩の領地、また楚(四馬塚)は、24%の8筆、神出来には「かけひ」、{かうけだ」を含めている。地詰帳では3個所でこの地名を連続した形で掲載しており地域的には近隣と見ていて、この地域の60%あまりが領地である。。中川以西であるがとうのかいとは、もともとは御殿屋敷で、徳川家康が大阪冬の陣で宿陣したとされる平井家跡で75%が領地になっている。八幡藩の領域は、大久保藩が分散化傾向が強いのに反して、特に東高野街道沿いに集中化しているように見える。

他方大久保藩の領地は、元禄絵図では、平池地区の1点を中心に集中して描かれているが、平池の下平池、上平池地区に拡大して見ても15筆で15%と残存率が低く、近隣の池の内、小池、大ぞう(尾道)などにやや高く広がっているが、領土としては全村に広がっている。普通数藩の領主がいる相給村の場合、領主の領土意識が低く、藩の石高中心の運営がされる場合が多いとされているが、両藩の間で八幡藩の場合は集中度が高く、大久保藩の場合は、分散度が高く、両藩の領土意識の間に大きな開きがあるように見える。

なお地詰帳では、請受農家を個人別に把握できるが、八幡藩の源氏は、元禄3年の覚え書きに名をつらねているが、幕末まで庄屋を続けている。大久保藩の半兵衛氏は、1750年頃庄屋を辞めているが、地詰帳(1808年)では石高が飛びぬけて多い。

八幡藩の農家

大久保藩の農家

 

農家氏名

耕地筆数

石高

農家氏名

耕地筆数

面積

石高

 

7

5.1

半兵衛

21

18.3

21.6

 

忠右衛門

6

7.1

半十郎

6

3.9

5.2

 

半五郎 .

6

4.4

上ノ喜右衛門

5

2.8

3.8

 

明意

5

3.8

三十郎

4

2

3.6

 

彦兵衛

3

4.1

なべか半兵衛

4

3.7

4.8

 

西右衛門、堂坂次兵衛、久兵衛

3

喜右衛門

4

 

甚五郎

3

 

かう田中兵衛

3

 

奥兵衛、治兵衛、伝右衛門,与兵衛、中右衛門久三郎、七郎兵衛、源兵衛、清右衛門、長兵衛茂兵衛、次兵衛、市兵衛、九郎兵衛、出守与右衛門、庄五郎、庄右衛門、新兵衛、吉兵衛、甚七郎彦右衛門、重兵衛

2

清兵衛

3

 

以下2筆
中右衛門、ねや久左衛門、中兵衛、かう田新右衛門、惣三郎、川新右衛門、祐斎、にしの半兵衛

 

 

 

 

久保池と星田牧
星田山(頂上は馬が峯。)の西側の山は、日高山といい、日高山から逢坂道という尾根道が逢坂や清滝峠に通じていたが、逢坂道の西側は地図で描かれているように西谷がY字形に流れていてその麓側に合峯嶺から打上村にかけて麓との間の分水嶺となる尾根筋が走っているため、山中の雨水は西谷を通じて久保池に流入し、4つの谷を通じて西隣村の打上川に流れている。

久保池はこのように打上村にとっての重要なため池であるため、この池は打上村の飛び地になっていて、池に流入している西谷水系は、別の扱いを受けていたのか天保絵図では、逢坂道を挟んで、東側のぼって谷水系の山は、禿山、西側の西谷水系の山は、繁山と描かれている

また、この分水嶺の尾根筋のため,日高山山中の雨水が麓に流れないことは、星田の語源は干田(ほしだ)といはれ、牧場に使われていたのがその原因の一つである


天保14年星田村絵図の傍示川

元禄14絵図ではへびが口を開けたような形の傍示川が描かれているが上あごはぼって川で下あごの部分は地獄谷川であり。胴体部分は西周りの傍示川で新規に築造された川であり、ぼって川の水門樋、なるとび、ろうけ水門樋から降雨時の大量水量の時には傍示川に流し、晴天時などの水量が少ない時は細川に流し星田大池で畜量するという原形が出来上がっている

大谷新池
星田新池よりも少し遅れる形で大谷新池が深谷を堰止めて造られ、大正の始めに完成したので大正池とも呼ばれた。この池は、星田村、寝屋村、水本村の共同開発であったためか、農民個人が担保を提供し、大阪府からの貸付金を受けて完成させたが早期間で完済されたとされている。この池は寝屋川の源流にあたり、決壊防止に星田山の良質の青粘土を固形化し、堤防の中心部に埋込むなど念入りな工事が行われたという。星田駅周辺は水利が悪いため、用水を必要としない綿花畑が盛んであったといわれているが、大谷新池の完成をもって消滅していったという伝承が残っている。大谷地区など傍示川の西側のことであろう。星田は綿花栽培、綿糸作り、星田縞をはじめ綿織なども交野で突出していて、次いで盛んなのは郡津であったと交野市史が認めている。明治の中頃の星田の片町線以北や寝屋地区は一面綿花で美しく、水田が目立たなかった。田圃の中の納屋を改造して幾台もの機械を据え付け、婦女子を雇って、綿布を作っていた。綿織製品は各方面に出荷が盛んで、むしろこれを主業とした農家もあり、大変成功した例も数多かったとされていて、江戸の末期に作られたとされる星田村大絵図には20軒ほどの屋敷が描かれているが、ほとんど苗字つきの豪農で、酒屋の菊屋、モメンヤ。明治も後半を迎え,、都市には紡績工場の活動が始まると、もはや手工業経営の採算が難しく、綿花栽培は,次第に蔭をひそめ、明治末期には全く水田耕作に逆戻りしたという経緯がつたえられているが、丁度時期的に重なったのであろう

星田新池 
地図の原図の作成は、明治41年であり、星田新池は、明治43年、大谷新池は、別名大正池ともいって、大正の初めに造ら れた池であり、両池は、地図には記載がないので、赤書きで付加記載している。星田大池は、北側にあった旭の山を取り崩し、その土砂で南側に堤防を築きぼって谷となすび石の谷の水を堰き止めて星田新池が造られたが、この池は、新規な水田などの供給先はなく、池の貯留水放流先は、星田大池と傍示川以外に放流先はない。従ってこの池は、ぼって川となすび石の谷の水を星田大池の前段の補助的保留と防災池としての調整池の役割を持っているだけであろう。旭の山は富士山の形の山が2つ並んで壁を作っていたがこの山の取り崩し中に10数個の縄文中期(4000年前)の10数個の住居遺跡がみつかった。大きなもので八畳ぐらいで、人の体
三分の一ぐらいの穴を掘り、6m位の丈の竹や材木を刺して先を蔦で結び、葦や萱の茎を並べて造っていた。壁にあたる部分は粘土を張り付けていた。部屋の中央に炉があって、小鳥や小動物の骨がでてきた。そのとき、中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って見つかった。ほかに池の南側の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が、土手と山との取り付け部分から、大正期の工事中に4枚の和同開珎をはじめ平安期以前の貨幣64枚が発掘された

新旧傍示川の相関図
上記の左側の地図は明治18年測量および右側の地図は明治41年の地図の土手で描かれた傍示川とその周辺の等高図を描いたものであるが、等高図は地形を表すものであるが、赤い線は逆U字の地形の最低点を結んだものであるが、両地図とも傍示川の位置が地形の最低点の西側にずれていて、傍示川は自然の川でなく人工的に掘削し、築堤して造られたものであるということが判る。また築堤は明治18年の地図の場合は2重になっていて、2段階で後に増強して造られた可能性がある。なお赤い線で書かれた川筋は自然の川筋で、天保絵図にも傍示川にそって書かれている川筋にあたるのであろう。なお、この明治の地図の地形の上から存在したと想定され、天保絵図には描かれている川を「旧堤防の川」と定義しておく

元禄10年星田村絵図が描く傍示川

 

地図の等高線は山や尾根筋の場合はU字型で川や谷筋の場合は逆U字あるいは逆V字の形で描かれるとされている。山や尾根筋の場合は周辺より高度が高く、川や谷筋の場合は周辺より低い高度のため地図では必ずこのような形になるというのはルールのようなものである

1また水量の関係から湧き水ではなく星田の山の山水を直接受け入れるためには、降雨時に大量発生する山水を放流するためのバイパス河川が必要であり、そのための傍示川の大改修が行われたのであろう。星田大池は、最終的に6ヘクタールになり、この大きさは甲子園球場の1.5倍の大きさの池である。このため晴天時の星田の山水はほとんどもれなく星田大池で受け入れ、降雨時の大量に流出してくる山水は、河川に早急に放流するシステムをつくりが必要であったのである。つまり、山水を放流する河川や谷の先に、水門樋を作って水門を越える大量の水は全て現在の傍示川に放流し、水門内に留まる少量の水の場合はすべて星田大池に流入させ、貯留するという仕組みができあがっていったのである。

星田大池の築造の時期は、寛永14年(1637年。3代将軍家光の時代。)に星田村の記録がありそれ以前とされているが、元禄10年星田村絵図では、1.3町(1.3ha)の最大時の4分の1の池を描いている。

傍示川は昔高岡山の東、つまり現在星田大池ができているところを流れていて、これを古代の傍示川と云い、現在の傍示川を西周りの傍示川と云って新しく作られたもので、この先はあまつげ川(天保10年星田村絵図で描かれている川)を流れていたとしている(まんだ72号和久田薫氏。)。また、この当時の水脈は、NTT社宅の建設のときに確認されているとしている。

傍示川には、地名あるいは固有名詞としての傍示川と歴史上残っている傍示川とがある。中川の東側は台地になっていたため星田牧として牧場に使われてきたが、平安末期に、飼育していた牛馬が病気で大量に死んだことがある。その頃、淀川に大洪水があり、対岸の三島郡上牧の為彌牧(いねのまき)の牛馬を飼育こともあって、星田牧はその傘下の福牧の支配を受けることになった。当時でも谷水を使ってまた小池を作って水田も適地には広がっていたが、税の取り立てが厳しく、属地扱いされることから、奈良興福寺別院円成院に寄進し、その荘園として庇護を受けることになった。傍示川は、その時の荘園境界の目印に用いられた川という意味を持っていて、名の由来はここからきているとされているが、現在の傍示川は、後世に新しく造られたものであり、高岡山の東側の現在の星田大池を流れていた古い傍示川が荘園境界になっていたのであろう。一般に村境や小字境などは尾根筋が使われる場合が多く、境界としてふさわしい地形であると思われ、また当時中川以東をはじめ、交野地方は、広く八幡八幡宮の荘園になっていたので、これにほぼ隣接していて、両荘園関係の境界としてもふさわしいと思える。現在の傍示川は、地獄谷川を含めて傍示川と呼ばれているが、小松山から南星台地区を越えて、星田新池の放流水であるぼって川と合流するまでは正式には地獄谷川でぼって川と合流後が傍示川とするのがより正確な名称である。

新(西周りの傍示川)旧(古代の傍示川というが星田大池築造によって消滅した傍示川のこと)傍示川の位置・相関図である。天保の絵図が描いている地獄谷川とぼって川の合流が星田大池によったところで合流している地形から両川を点線で示し傍示川は合流地点から北側の下流が旧傍示川となっていたのであろう。旧堤防の川は不おじ川あれが旧傍示川沿いにできていることから元禄絵図の段階ではできていなくて、星田大池が大きくなり、バイパスとしてある程度地形を使って第1次として築造され、新傍示川はその西側に全く新しい川として掘削して造られたのであろう。

 

また北河内の歴史雑誌「まんだ72号」で和久田薫氏が傍示川は高岡山の東を流れていて、現在の傍示川を西周りの傍示川とされているのはこのことであろう。昔は地獄谷川とぼって川が合流し、そのまま高岡山の東側を流れていたのを(きつね川という川があったともされるので、仮に傍示川の別称としておく。)そこに元禄時代以前のある時期に星田大池が造られることになったので、このためのバイパス川が地獄谷、ぼって両川の合流地点の南の地点で西周りに両川と元禄絵図に描かれている不おじ川を結ぶ新しい川の掘削が始まり、この場合は、広い星田の山に降った雨水を直接受け入れるので、降雨時の大量の雨水の放流河川とし、またきつね川であった古い傍示川は水門樋を作って晴天時など水量の少ない時にはすべて受入れ、その場合、受け入れ河川は、きつね川から細川となり、その名の通り細い川を通じて星田大池で貯留することとなったのである。傍示川の名称は、池になったきつね川から、代替川である新造傍示川にある時点で名称が移ったのであろう。元禄絵図の段階では、過渡的で傍示川は星田大池ときつね川の名称であったのであろう。絵図の山根道から上流の川は、西周りの傍示川かあるいは前項の旧堤防の川かはっきりしないが、西周りの傍示川であったとしても絵図の傍示川あれは現在の細川の位置にできているが、もし天保絵図に描かれているような傍示川ができていたとすれば、傍示川あれの位置は西周りの傍示川周辺に分散されこの位置で氾濫を起こすことはなく、未完であったのだろう。
元禄10年星田村絵図は不おじ川(傍示川)は赤い線は山根道で高岡幼稚園から交野市立三中の裏門に通じている道であるが山根道から南側に267間と描いていて、メートル換算すると480mであって、傍示川は寝屋村に入ると名称がタチ川に変わるが、この長さは山根道からタチ川に変わるまでの長さにほぼ一致し、川の上流は傍示川になっていない。他方、絵図では、大池一町四反と最大六反になったがその4分の1近くできあがった星田大池が描かれていて、その南側に不おじ川あれ(傍示川の洪水被害地)が描かれている。従って傍示川の上流はこの川にあたるのであろう。(川というより一部は池になっている。)

乱れた等高線の形から見た人工掘削河川である傍示川
 河川周辺の等高線の形は、日頃の水の流れや時には洪水、氾濫などの繰り返しなど、長年の水力によって河川の両岸の高低差は均一あるいは対称的など均衡で、つり合いがとれている場合が多いが、傍示川の場合は、左右不均衡で中には左岸と右岸があたかも斜め斜面に造られたような裨っこ形の等高図になっているところもあり、明らかに人工的に掘削によって造られていることが読み取れる。

1 地獄谷川の取水口
地獄谷川の晴天時は火薬庫の橋付近にある取水口で受けて 2の溝に流す
現在の地獄谷川とぼって川(星打新池からの放流水)の合流及び傍示川(降雨時)と細川(晴天時に星田大池に流入する川)への分流樋システム

明治18年および明治41年の地図から見た傍示川

星田村の3領主と領土、庄屋など村役人、所属農民

元禄3年の3領家と庄屋の覚え書きと文化5年の間には118年の開きがあるが,元禄3年では役家を請受農家とし、無役家を小作農家とすると八幡藩で請受農家6軒で、小作農家3軒、大久保藩で請受農家5軒で小作農家5軒であり、文化5年の地詰帳では、単位が農家数と農地筆数の違いがあるが八幡藩で141筆、大久保藩で108筆と相続をはじめいろんな形の承継や星田大池や灌漑用水によって分散化や耕地拡大が起こったのであろう。

なお、元禄3年の覚え書きは、延宝3年(1675年)の検知(6尺1分を1間とした新縄で行われた検知)の15年後の農家の実態を表している

交野郡星田村地詰帳(文化5年ー1808年)が描く市橋藩、八幡藩、大久保藩の農地

地詰帳は、普通検知帳のことを云い、普通検知帳は、幕府(直轄地の場合)や藩主の命により、村役人が作成するものであるが、この地詰帳は、過去の検知帳の原本の複写本に事務的に作成されたもののように思える。普通村役人が年貢の徴収のため請受農民単位に作成する村役人が徴税事務上作成するとされる名寄帳とも異なって、何のために作成されたものかわからないが、この地詰帳は、普通各藩ごとに村役人が作成するものであるが、市橋藩主導でつくられたのではないかともいはれるように、市橋、八幡、大久保3藩合わせた村石1535.8石に相応すると思われる2、138筆の請受農地が、小字単位に土地順に各藩混在して記載されている。
しかし各請受農家の記載の書式が別表1に掲げるように、市橋藩と大久保藩は、太閤検知の書式を使っているが大久保藩については出マークが付記されており、八幡藩については書式が全く異なっており、田畠の上中下ランクと耕地面積の記載がなく、生産石高だけの記載になっていて、当時水田耕作bとともに綿花栽培も盛んであったのでこれに対応した書式が採用されたのでないかと思われる。

第2表は、第表票の書式別によって各小字内の八幡藩大久保藩の田畠の筆数と生産石数を示した実数であり、大久保藩小字別耕地面積は、大久保藩については記載しているが、八幡藩には元数字の記載がないので記載できない。なお( )内の数字は小字内の市橋、八幡、大久保3藩の全数である。

 

 

 

0

江戸時代元禄期の星田村の領主としては元禄3年の星田の3領家と庄屋の覚え書きにより市橋藩が1306石、八幡藩が120石、大久保藩が109.8石としていて、元禄10年星田村絵図では八幡藩の領地を2個所、大久保藩の領地を1個所で示している。

市橋藩の領地

大坂夏の陣の大坂攻めの際、家康が平井家に宿陣したが、星田防衛などに功績があった市橋家に幕府成立後の元和六年(1620年)に1306石が与えられたものである。絵図には表示がないが、星田村高の1535.8石の85%占め、八幡、大久保両藩の領地以外が領地であろう。

大久保藩の領地

大久保藩の地域は隣村である寝屋村、高田村に近いところであり、現在第2京阪道路が造られている地域である。

大久保藩はかなり遅れて、5代将軍綱吉の時代の貞享4年(1687年)に大久保藩に先駆けて永井藩に知行が行われ、その後大久保藩に移藩されたのである。星田村では、寛永14年(1637年)頃から村の記録に星田大池が登場し、その頃から星田村では村中総掛かりによる大開墾が行われたとされていることから、大開墾は星田大池の築造を柱に水田開発が行われていたのであろう。この

八幡藩の領地

元禄絵図では八幡藩の領地として、2カ所に分かれて表示されている。1か所目は現在のJR星田駅の北から北東にかけての地域である。2カ所目は千原の交差点付近から中川を北に沿って府道交野線に至る手前の中川の左岸一帯の地域であり、双方とも中川の西側のかっては星田牧であってところに描かれている。

八幡藩の領地については、歴史的には、江戸幕府成立以前に逆のぼる。豊臣秀吉の文禄3年の検知の際、八幡八幡宮が星田を含む一帯を昔から荘園としていたことから印字山(妙見坂1~2丁目、地名は朱印状で認められた領地の意)防龍(藤が尾1丁目付近、語源は坊領で星田公園にあった愛染律院の寺領)など120石の寄進することの朱印状を与え、また徳川幕府もこれにならって承忍していたことから始まる。(和久田薫氏、星田歴史風土記。)、残り100石あまりの位置は不明であるが、少なくともこの2地区は、絵図の描く中川の西にえがかれている2か所の領土の範囲には含まれていない。星田大池は堤防高60mで星田の豊富な山水を貯留し、そこから土地の自然勾配を使って供給して水田域をかって星田牧といはれた耕作困難地などの水田化を広めた。。

絵図が描く地域、特に星田駅周辺は標高で45m~50m高さであり、古くからの水源である中川の供給域はせいぜい高さ35m~40mであって、この地域には現在の星田大池ができていなければ給水が不可能な地域である。

これは星田大池からの給水がはじまって以降でないと耕作農地は不可能で、領地としては不毛の地に等しい。八幡藩の領地も星田大池の通水によって、永井藩(大久保藩の先代)の知行の時期に八幡藩も印字山や防龍からまとめて領地替えがあったのではなかろうか。

星田の地形は,南側は山地を抱えており、全般的な地形は南高北低で、南の小松山、星田山、日高山の3山の高さは、標高で260~280mで、麓に近い星田新池や久保池で約100m位であることから、頂上と麓の標高差で160~180mである。3山の間を流れる妙見川(東川),地獄谷川、ぼって川、西谷の流域の長さは700m~1000mの短い流域で、谷筋の流下勾配が高く、また、山は花崗岩が多く、土砂の流出が激しいため、河川の氾濫や天井川になるなど降雨時の河川や谷水を利用することは難しい問題を含んでいた。唯一古くから水田が開けてきたのは。中川以西と天の川の間の地域であり、もともとこの地域は物部氏が開発したとされ、奈良時代の大化の改新の公地公民が行われたが、班田収授のための条理田にも包含される古い水田であったが、中川の源流は、直接山水を受け入れるのではなくその湧き水主体の川であった。つまり妙見川と地獄谷川に挟まれた小字地名の紐谷、楯石、地下下、初項などの狭い範囲が源流で、星田山、小松山の頂上から中腹にかけての豊富な山水は、利用するよりも、降雨時の防災対策が中心であった星田の集落は低いところで標高で40m、さらに下って川尻の池あたりで35mであり、中川を水源とすると赤い点線の等高線以北の地が供給可能であるが、現在のJR星田駅周辺など、星田の西側は、45mから50mに近い高さになり、この地域に送水するためには6~70mの高さから自然流下によって送水する星田大池が必要であったのだろう。

 現在作成中身、未完作品です

明治41年星田の地形図から見た星田の地形・水系