御旅所
現在東西のだんじりを収容している。
東辻屋町大師堂
上口町大師堂
松岳庵大師堂
星田神社とその周辺
天照社と天満社
だんと墓に居並ぶ石物達
上場地蔵と昔その近くにあった三輪明神
今池から星田神社へ向かう山根道の今昔その2
今池付近の山の根の道
星田南線と中川道の交差するあたりを今池という。このあたりは元禄地図が示すように上の池と中の池(この両池の間の土手がなくなり全現堂池となっている。)の北側に今池があって、この池は埋め立てられて現在住宅地になっている
今池付近の山の根道今昔その1
星田南線の星田保育所付近から見た田圃の向こうに見える山の根道(昭和44年頃)。現在田圃はスーパーにっこうの駐車場などになっている。中央の写真は南側の今池地蔵側から見た現在の写真。右側は、星田南線と中川道が合流する少し北側にショートカットする形で残っている10m余りの古道。
星田の中心部の古い地名
上の地図の黄色い部分は、明治初期の実測絵地図による居住地域である。
地名は、西村、乾(いぬい)村、と北,(うしとら)東、(ひつじさる)の各村で方位の名前がついていた。南村だけなかったが、南村にあたるところは、星田神社や星田寺、新宮山八幡宮などで居住地域でなかったので向井といった。

本殿は、住吉四神である。昔星田、私市、田原、南田原地区の氏神は、岩船神社で,4者で運営していたが、宝永年間(1704年)に分霊して各村で祀るようになったとされる。

外宮
古宮は、歴史的には古く長治2年(1105年)には存在していたとされ、速日命、素戔鳴命、仁徳天皇を祀っている。廃仏稀釈の際新宮さんにあった八幡宮と慈光寺にあった琴平宮も祀られている。
本殿(左)と社務所(上)
大池から見た山の根の道と布懸遺跡付近
(昭和43年頃)
野辺橋大師堂
慈光寺の大師堂
中川筋大師堂
薬師寺の大師堂
星田には町内で管理する大師堂は15祠があるがそのうちお寺に設置されている祠の一つ
薬師如来
千体仏
大谷地区を歩く
星田名所(などころ)記について
文化・文政(1804〜1829年)頃描かれた手書きの図画を掲載している。写真資料がない時代で貴重な資料である。
現在の中川は、河川の管渠化が進み、かなりの部分が埋め立てられ道路になっている。昔は5つの橋がかかっているのみえあった。星田名所記には、慈光寺の北側のはすかい橋と慈光寺の南側の除夜の四辻橋の様子が描かれている。はすかい橋には塔のようなものが描かれているが、幕府のおふれなどを掲げた高札場である。このあたりは、当時の政りごとの中心であった。中川の上流は、星田東線道路(星田妙見東線)と交差するところで紐谷川になるが、その最後の橋を寺前橋といった。そこに円通院という大きな浄土宗のお寺がたっていたための命名であるが、明治の始めの廃仏毀釈で廃寺となった
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地神祠
古代から先祖をうやまい、神として祀られてれてきた。札町大師堂はここにある。
六路の交差点
昭和7年の府道の開通に続き昭和39年12月12日午前10時交野市内で初めての交通信号が点灯して自動車交通時代に突入。以来交通の流れが変わりだし
石仏について
石仏には、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ地蔵菩薩と右手を上、左手を下にしている阿弥陀菩薩の2種類があり、また地蔵菩薩の中で右手に錫杖を持たない古い形式の「古式地蔵」がある。ここでは、一般になじまれている地蔵を区別なしに用いている。なお、交野では、ほとんどが阿弥陀菩薩で、地蔵菩薩は、少ない。

宿陣のとき家康から拝領を受けたとされる火入れ、湯呑(左)と絵皿
星田名所記に描かれている文化3年(1806年)に建てられた家康行営の記念碑と家康の座所であった奥書院の上段の間を模して造られた記念の建造物
下は現存する記念碑
大阪夏の陣で星田で宿陣の徳川家康
元和元年(1615年)5月5日大坂城攻めのため徳川家康は、午前9時京都を進発し午後3時星田の里正(村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で,五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理し手差しだした、二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、家康が到着するや、人やで秀忠、本田正信、藤堂高虎、土井利勝,安藤重信と軍略会議を行った。東軍16万人のうち、家康の手兵1万5000人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌日大坂方が八尾、久宝寺で討って出たので、午前10時に出陣していった。 
光明寺の本堂と薬師堂
創建は豊臣時代以前とされる。右は、平安前期の作の薬師如来立像。交野市内では最もふるいものであるが、頭部は後に修理されている。
八幡宮と戎社 
星田寺
創建は河内長野の金剛寺の記録により平安時代にはあったとされる。左が本堂右は十一面観音堂と十一面観音
旗掛け松の碑
松はかれてしまったので碑が建っている。
宝篋院塔と石塔
石塔には1309年宝篋院塔には1615年と刻まれている
大谷にあったお寺
元禄絵地図が描く松覚庵
十三石仏
初7日から33回忌まで13回の仏事の仏と菩薩を刻んだもの。生駒山系に集中し,府下で29しかなく、交野市では、ここのみ。
江戸相撲大井川万吉の碑
.京都、八幡への道路標識を兼ねている。
交野で最初の郵便局
明治9年星田郵便局がこの屋敷の門長屋で開業し、郵便取扱業務を開始した。交野郵便局の開設は明治41年
地蔵堂
この地蔵堂には立派な厨子に地蔵尊を祀り釈迦涅槃図がかけられている。半鐘には弘化3年(1846年)と38件の屋号が刻まれている。愛宕灯籠には、延宝8年(1680年)と刻まれていて、長年火の用心をよびかけてきた。
大谷北の大師堂
石造りの大谷北の大師堂。星田の大師堂は,ほかは全て木づくりの祠であるが、大谷の北と南の大師堂のみ石祠である。祠の右側に寛政2年(1790年)と書かれている。i
星田駅周辺を歩く
星田名所記の大谷南の大師堂
ここは、「治右衛門広」という地名がついていて、山の根の道と東高野街道が合流し西の打上方向に向かう地点である。現在熊取町にある京大の原子力研究施設の建設の際、その建設予定地の候補になったこともあり、また避病舎(伝染病舎)が建っていたこともある。

大谷南の大師堂
府道の開通によって大谷の村落と分断され、現在では田圃の中でぽつんと建っている。今日では、寝屋川市打上の個人的信者が主にお世話されているという。昔はこのあたりまで大谷の村落が続いていたのであろう。関西鉄道(JRの前身の会社)が開通するまでは、東高野街道沿道の大谷地区でははたごや物販などで栄えたという記述が残されている。

大谷地区は、中央を昔の東高野街道が走っていてこれによっても栄えた村落である。道の北側は寝屋川市大谷、南側は交野市星田で現在でも両市の境界になる道である。明治維新後東高野街道だけが県道(堺県.明治14年から府道)で他の道は、すべた里道であった。徒歩交通の時代であり、人の流れは多かったであろう。明治41年の関西鉄道(JRの前身)昭和7年の府道の開通によって人の流れが変わったが、現在でも街道沿いの雰囲気を残している。

旭尋常高等小学校
関西鉄道の開通星田駅の開業(明治31年)に前後して東高野街道沿いにあった旭尋常高等小学校(明治26年〜40年)。左は、星田駅から大谷橋に向かう東行き一方交通路の南側に立っている標識
布懸遺跡(旧石器時代)
高岡山から見下ろした布懸遺跡。右の建物は3中。
NTT社宅建設中に旧石器時代(1万5000年前)の石器130点以上が発掘された。
星田神社の南側から妙見口に向かう道は、山の根の道といって古くからの広域交通路である。その道の南側は、神社側から昔の地名(小字名)で上垣内、垣内、外殿垣内と続き道の北側は、神社付近が向井で次いで東村、艮(うしとら)村と星田の古くから中心部につけられている方位のついた地名が続いている。
星田神社から妙見口へと山の根道(垣内の道)を歩く
梶ケ坂の山の根の道
山の根の道は、もともとけもの道が発達したもので山の麓をはうように道ができているといわれるが、この付近に昔のままの細い道が残っている。右の白黒写真は昭和43年頃
高岡(三太郎)稲荷
昔は,講に入っている家は50軒くらいあり、14〜5軒で組をつくっていた。二月の初午の日には、みどり池は。赤いのぼりが立並び飯の「もっそ」をつくって草原などをめぐる。講中の者は、当番の人たちが準備をし、赤飯の「もっそ」や味噌汁で会食した。講では講田も持っていた。
星田大池
星田大池は、星田新池や大谷新池が明治後期から大正の初期に作られたのに対してこの池は古く寛永14年(1637年)に改修されたことが村の記録に残っていて。それよりも古い。星田の語源は、干し田であり、利水が困難なため平安時代には牧場に使われていたとされるが、この池によって穀倉地帯づくりに役立ったであろう。池の大きさはもともと6haあったが、3中校舎建設のため3.9haになったが、それでも交野では1番大きな池である。
高岡山
みどり池から見た高岡山。昔は、星の森の近くまで続く長い山であったが、星田大池の築造からはじまり、住宅、墓地等の建設のため小さくなり、このちいさな森の中には高岡(三太郎)稲荷の祠があってそのための丘あるいは森のようになってしまった。

高岡山・星田大池・みどり池・山の根の道の梶ケ坂・今池地区を歩く

妙音池と弁天島

妙音池は、もともと八幡宮の放生池として造られたもので、星田では最も古い池であるとされ、その名前は八幡宮の名鐘の響きからきているといわれている。弁天島の由来は、江戸のはじめに、江戸のはじめに長浜から星田に移住してきた長者の愛娘の病を治してくれたお礼に竹生島に似せた小島を造ったのが始まりで星田会館建設のため現在のように建て替えられた。星田名所記には祠が2つある昔の姿が描かれている

星田公園(新宮山)

星田名所記(などころき。)が描いた八幡宮(左)と愛染律院。八幡宮の前面の松の木は、大阪夏の陣で徳川家康が大阪城攻めのため平井家で宿陣したがその時軍旗を掲げた松。

星田公園のある新宮山は、交野や枚方の茄子作など一帯が平安時代から岩清水八幡宮の荘園であったが鎌倉時代になり、荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊して新宮山八幡宮が設けられたのが始まりである。星田公園は南北二段になっているが、南の高いところに八幡宮が北側の低いところに神宮寺である愛染律院がたっていた。明治はじめにおこなわれた廃仏毀釈によって廃宮、廃寺となった

星田公園・妙音池を歩く
慈光寺門前に並ぶ伏拝み
左から大峰山,二月堂、柳谷さん

慈光寺

西山浄土宗。創建は、不明であるがここにある十三石仏は、慶長十二年(1607年)の作。

善林寺

本尊は、阿弥陀如来立像.創建1527年。現在の本堂は、天保時代に枚方釈尊寺から移築したもの。

中川通りを歩く

薬師寺にある鎌倉時代の古代地蔵
(中央)

薬師寺の仏像と鎌倉地蔵
薬師寺は無住寺で保存会が管理しているが本尊の薬師如来は、室町時代作の総檜づくりである。千体仏は、同じく室町時代に総檜づくりで地蔵菩薩坐像や薬師如来立像等671体が5個の木箱に納められたもので、いずれも交野市指定文化財になっており、毎年文化の日に一般公開されている。

半尺口の大師堂
この大師堂は、もともと東高野街道の一里塚にあったものでここに移された。

西の村の本通とは、六路の交差点から星田小学校の北側を通って慈光寺のところで中川道に通ずる昔の星田の旧村落を南北に縦断する唯一の道である。2〜3メートル内外の細い道がところどころでくねっていて先の見通しが悪く、四つ辻がなく、いびつの三辻あるいは四辻になっていて、敵の進入に備えて、迷路のような町づくりがおこなわれたと思われる道である。

六路の交差点から西の村の本通を歩く

旧星田駅と下段左は旧星田駅の待合所の椅子の柱
この柱は、大正3年の大正天皇の行幸に際して急拠駅舎の改築で取り付けられたもの。右は行幸記念碑でここから交野が原一帯で行われた陸軍特別大演習を観られた。

東高野街道の六路の地蔵
駅の北側の道幅が狭い舗装された農道然とした東高野街道への入口に、昔のにぎわいがなく、むしろそこから分岐している枚方市高田へ向かう市道の交通安全を祈るかの状態でたたずんでおられる。

六路の地蔵
この地蔵は、度重なる河川改修で土中に埋められ長い間不運な運命を過ごされてきた。戦後見つかって掘り起こされ、地蔵さんの川とも言われた可所川に戻られたが。可所川は、最近下水道の完備などで水量が落ち、溝ふうの川になり、ネットに囲まれ目立たなく,訪れる人もなく2人さびしく過ごしておられる。

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星田駅周辺は、昔の地名(小字名)で六路といった。昔の徒歩交通時代には国道的な役割をしていた東高野街道があってそこから各方面に道が通じていて、当時の交通の中心であったことでの命名であろう。明治31年関西鉄道(JRの前身)が開通し、星田駅ができたが、以来鉄道を通じての交通の拠点になった。また昭和7年に府道枚方・富田林・泉佐野線(以下「府道」という。)の開通によって東高野街道は、主役の座を譲るだけでなく、その後の自動車交通の発達によって、道幅が狭いため、抜け道の座になり下がった