印字山(現妙見坂2丁目付近の小字名)から見た藤が尾団地開発前の昭和43年ころの藤が尾、星田の村落。
印字山の名の由来は、江戸期に新宮山八幡宮のために設けられた免税地で、その御朱印が交付されている地であるともいはれている。
門の木(森の木)地蔵
精霊送りや精霊迎え、仏事のお供えや廃棄物の処理など特別の役割をもっていたが、公害問題などで役目終了。5体の仏が1体になった
乾町大師
星田名所記の光林寺に千原・野辺の里・乾の里の集落が描かれているが、「里」は奈良期の大化の改新以後につくられた行政区画に用いられたもので古い集落の証左であるとされる。光林寺は、降星伝説の八丁三所の一つであるが特に旱魃の折には、ここでお星さまをまつって雨乞い行事を行うのが慣例となっていた。
坊領の弥生住居跡遺跡の碑
学研都市線の北側沿いの藤ヶ尾小学校と天の川鉄橋の中間付近にある坊領の弥生住居跡遺跡の碑。坊領の地名の由来は、ここは、新宮山にあった神宮寺の愛染律院の料地であったため坊領といはれたとされる。
故中村純一中尉の鎮魂碑
昭和22年7月9日米機との空中線で撃墜されて星田に落下された鹿児島県出身の中尉の鎮魂碑。
星田共同墓地の石仏
左)みちしるべ地蔵.もとは中川道からきた四つ辻(現臨港製鉄内)にたっていたが現在は入口にたっている。
中)お迎え地蔵と川の改修時に発掘された六体の地蔵
右)六地蔵と一番手前は、板碑形石仏
交野八景と弥生遺跡
「星の森の寒月」で交野八景の1つであった。また弥生遺跡があって古くから開けたところである。
墓前橋
東高野街道の橋で当時唯一の府道の施設で石製の橋。
偉い人の墓
慶応3年(1867年)鳥羽伏見の戦いで亡くなった人の墓。畑の持ち主が祀っていたが、現在自動車販売会社内で祀られてる。
堀之内、金門、車司の名の由来(交野市史民俗編の地名から)
堀之内は、豪族屋敷の集落、館を意味し、地籍図の南北に流れている川(用水路)が堀である。金門(かなかど)は、東高野街道に面して金箔をはったような立派なもんがあり、車司(車牛、くるもうじ)は同じく東高野街道に面していいて、長者の乗る牛車を引く人や牛を飼育する人やその管理者が住んでいたところであろう。
周辺の遺跡地図
上の山の屋根を支える独立した柱をもつ大型掘立て柱の建物の遺構
右の図は、復元想定図。建物規模は、4.5m×8.6m。。弥生中期(約2,200年前)のもので、丘の上にあり周囲を一望できる位置にあって、シンボリックな建物であり、首長の住まいか神殿の役割をもっていたのではないかとされる。
川尻の池 工場
工場団地の計画によって消滅した池である。徳川初期の古地図にはすでに描かれている古い池である。池の岸には葦が生い茂り、水面には、一面に菱や水藻が浮かんでいて、水は常に暗く淀んでいた。見るからに気味の悪そうな池であったとされる。昔から数匹の河太郎(河童)が住んでいて、村人が池堤を歩いていて足首をつかまれたという伝説が残っている。
一里塚にあった半尺口の大師堂 大正三年の陸軍大演習の際当時の村の入口であった半尺口付近に移転されたもの。
東高野街道と一里塚の碑
北山師岳
この地域は、東高野街道が走っており、一里塚があって交通の要所であったことが考えられるが、現状は、府道の西側は田畑であり、府道から中川の間は、団地工場が作られ、中川の東側は奈良時代に条理制の区画が行われた古い耕作地である(藤ヶ尾の区画地図参照。)が、現在でも坊領の学研都市線に沿った一部は水田が残っている。工場団地の造成にあたっては、中川流域の最終の池であった川尻の池も計画地に含められ消滅した。
現存する歴史遺物に属するものは、主なものは、星田の共同墓地ぐらいである。大正3年このあたりから交野が原一帯で陸軍の大練習が行われた際には大正天皇は、星田と上の山に設置された御立見所から観戦された。
また地名(小字名)からは、堀之内、金門、車司は、鉢かづき姫の長者屋敷の跡で、それにかかわる名前とされ、市の西は、昔の星田牧(牧場。)にからんで牛馬の市場があったとされる。尾道(おどう)は日本書紀の仁徳天皇が設置した茨田の三宅がここにあったという説もある。最近の第2京阪道路建設にかかる発掘調査によって地続きの上の山遺跡あるいは私部南遺跡などの解明が進んでいるが、平池遺跡(古墳時代〜中世、北星田9丁目〜茄子作南町)として古墳時代後期の水田区画など遺溝と石器などが発掘された。
ぼって滝
北の小門の礎石と石積み
小松山の外にあり、唯一現存する北の小門の石積みと礎石
小松寺の石碑
小松山の東のゴルフコースに建っている
ゴルフコースの向こうに見える小松山と往時の周辺の地図
聖滝
昔滝の下になすびの形をした大岩(30個の庭石になったといはれる。)なすび石の滝といはれた。左の図は、明治初期の絵地図が描く滝となすび石の姿
馬が峯
日高山
土水小場
一蓋被(いちがいかぶり)
古跡 小松寺跡
現在はゴルフ場になっているがここに七堂伽藍の大寺があり、戦国時代には地域豪族の居城となり小松城ともいはれた
西谷
なすび石の谷の西側
なすび石の谷を登って清滝を過ぎたあたりから尾根筋を登ればよい。慣れてくれれば星田新池の手前で尾根にのるのもよい。
(新入路がわかり難い。)
ぼって谷となすび石の谷の間
星田山の頂上は馬が峯といいその手前の前峯
で大きな石があり、石の上からは、180度以上の展望が開ける一蓋被(いちがいかぶり)
がある。
ぼって谷の西側
寝屋川市打上方面から打上神社、
方面から交野市寝屋川市の境界になっている尾根筋と星田新池から四条畷市逢坂に向う道(逢坂道)
が四条畷側の開発によって分断され丁度半環状ルートを形成している。
星田新池とぼっての谷となすび石の谷
星田新池には池の東側からなすび石の谷、池の西側からぼっての谷が流入していて、両谷が山を分断して,山頂のやや南にある分水線以北の水を集めている。
星田の山は府民の森星田園地ができたお陰で南側は、整備されたが、北側の星田山(ぼっての山)などの山を中心にした地域はそのままのこっている。これらの山は、薪とりや肥料用枯草とり、狩猟など生活に直結した形の山登りや清滝街道(現163号国道)に向かっての山越え交通路などにも用いられた結果、星田の山は、北側からは傍示川周辺、東側からは妙見川(菖蒲の滝の川)周辺から尾根筋は全てといっていいほど古い道が残っていてよく使い込まれた山である。しかし、山の下流付近で大きな砂防ダムや放水路が作られた結果、ルートが分断され主なルートは限られてきている。地域住民は府民の森へ抜けるルートのハイキングを楽しんでいる。
真言墓の鎌倉地蔵
小松寺
法華宗。創建は、宝永元年(1704年)。本尊は、日蓮大菩薩御定の久遠常住輪円具足の南無妙法連華経
藤ヶ尾とその周辺を歩く
星田中川の東と西
左の図は奈良時代の大化の改新の際、班田収受をおこなうため行われた条理制の区画である。これは全国で河川や池の近くで稲作に便利なところでおこなわれたものである。中川の東部地区は天野川に近く、特に中川と妙見川が合流する付近は、水田耕作にふさわしい湿地帯を形成していたから坊領、中水道、森の木などの弥生遺跡が発掘されている。
なお、中川の西側は、ほしだ牧として牧場に使われているが、新宮山下、星の森、大谷新池などでも弥生遺跡がでている。
坊領の弥生住居跡遺跡の碑
学研都市線の北側沿いの藤ヶ尾小学校と天の川鉄橋の中間付近にある坊領の弥生住居跡遺跡の碑。坊領の地名の由来は、ここは、新宮山にあった神宮寺の愛染律院の料地であったため坊領といはれたとされる。
江戸時代、地下下(星田新池から傍示川に下った現星田7丁目付近の小字名)に源姓の星田次郎右衛門正種という武士が住んでいた。寛政系図によると。「河内の国星田庄から起こる。家紋丸に三星、水車。千姫取次役、後江戸に帰る。」とある。この武士は、星田出身で、7歳の時に11の豊臣秀頼に嫁いできた千姫の取次役をしていて、元和元年(1615年)の大阪城落城とともに、江戸についていった。その屋敷跡畑は、7〜80坪であったとされる。
光林寺周辺 千原・乾の里を歩く