表紙に戻る

資料   

星田村大絵図(交野市教委蔵)、
河内国交野郡星田村地詰帳(同市教委刊)
星田名所記(春潮亭芦屯著)
和久田のあゆみ(和久田薫著)
中井忠兵衛家について(中井忠臣著)

西の地車は仏式で、 東の地車神式である。中川を挟んで東と西は、競い合って時代によっては、競った。小道具を整備することに熱中したが。このため、祭りの前には、東は、西からもらった嫁を、西は、東からもらった嫁をそれぞれ里に帰し、計画が漏れないように警戒した時もある。

平井家の御殿屋敷

大坂冬の陣の時、徳川家康は、当時の星田村の村の正であった平井家に宿陣したとされているが、大絵図では徳川家康の御殿屋敷が大きく描かれている。屋敷敷地内に田三枚と此辺田平井氏屋敷地鋪の内なりの記載がある。

星田名所記が描く御殿屋敷

星田村大絵図は、縦184m、横180mの大絵図(交野市指定文化財。)で、江戸時代につくられたものであるが、時期の詳細は不明とされている。平井家の敷地絵図が描かれていることから、少なくとも文化5年(1808年)以前に造られたものではないかと考えられる。星田名所記は、文化文政期(1803~1831年)に春潮亭芦屯氏によって書かれたもので、本文の一部は交野町史にも掲載されているが、当時の絵図が25枚ほど描かれており、写真のない時代、貴重な記録である。河内国交野郡星田村地詰帳は、文化5年の課税台帳、当時の年貢台帳にあたるものであるが、星田村の領主は八割五分は市橋藩で、ほかに八幡(石清水八萬宮)藩、大久保藩の三藩があるが、この三藩の2138筆の耕地を藩別ではなく、当時の小字地名別に土地ならびに従って作られた年貢の課税台帳である。

以上3つの資料をからませて当時の星田村を見てみる。

大坂夏の陣で星田で宿陣の徳川家
元和元年(1615年)5月5日大坂城攻めのため徳川家康は、午前9時京都を進発し午後3時星田の里正(村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で,五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理し手差しだした、二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、家康が到着するや、人やで秀忠、本田正信、藤堂高虎、土井利勝,安藤重信と軍略会議を行った。東軍16万人のうち、家康の手兵1万5000人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌日大坂方が八尾、久宝寺で討って出たので、午前10時に出陣していった。 
制札場
大師堂
地神さんと東和久田家
星田神社と星田寺
新宮山(星田公園)
左図は交野古文化同好会の機関誌「石鏃」の奥野平次会長の取材記事の中での地神さん300~500年の樹木や大木。宝篋印塔の残欠、と札町大師堂もここにあった。
付近に住宅建設が進み、徐々に規模が縮小されていったが右の写真は15年ほど前の地神さん。
最近になって、札町大師堂を含めて見当たらなくなった。

地神祠は、今日まで田畑を開墾をし、住居を建て、集落をつくってきた村人のご先祖を祀るものとしてつくられてきたもので(西井正和氏)星田名所記では広い敷地で立派なものが描かれているが、近年周辺に住宅が建ち、徐々に小さくなり、現在は祠は札町大師堂を含めて見当たらない。、

地神さんの背後に東和久田の屋敷が描かれているが、絵図の和久田武兵衛家であろう。


御旅所
御旅所はもともとは、神様が遊びにいったり、神さまに芸をみせたりするところであったが、現在では、星田神社の東西の山車2台が収容され
ている。絵図では、畠所(はたんど)と呼ばれた薬師寺の傍に壇尻蔵が描かれているが、東の地車を、神社の北側の堂坂(とさか)に西の地車
が収容されていた
愛染律院
星田公園の北側の低いところに建っていた宮内寺であった愛染律院
新宮山八幡宮
現在星田公園になっているが、荘園時代、交野一帯は、石清水八幡宮の荘園であったが、鎌倉時代、新宮山八幡宮(左の図)が分霊してつくられた。大坂冬の陣で平井家に宿陣した徳川家康が旗を掲げた旗掛け松が描かれている。
八幡藩、大久保藩の農家
地詰帳では、八幡藩は、石高で120石で請受農地で141筆。大久保藩は、109.8石で農地数で108筆であるが、以上うち、両藩の4筆以上の比較的大口農家を書き出したのが前表である。八幡藩では源家が庄屋を務めていて、大久保藩では半兵衛家が庄屋を務めていて、半兵衛家は、幕末まで努めていたとされている。なお源家あるいは半兵衛家の豪農・中農の石数との差は、前者で16.6石、後者で16.7石は、市橋藩の領地での石高であり、また、八幡藩の半五郎家は市橋藩の庄屋を務めており、従って市橋、八幡、大久保藩の各領域は交錯した形で分布していたことにな
最も石高が高いのは半五郎氏で41,59石で、筆数では80筆に及ぶ。、半五郎氏は、東和久田の和久田武兵衛氏の幼名であることから東和久田家であろう。三郎右衛門氏は、別に三郎右衛門(辻や)があり村内の地域を分けて保有して、年貢は、やしき(屋敷)の年貢を別に払っていて、三郎右衛門(辻や)として二本建てで支払っているので両家で分けているが、両家が、同じ家とすると47石あまりになり、最も石高が高くなるが平井三郎右衛門家であろう。
両家以外で、星田村大絵図記載の個人住宅の名前と同名の石高を見てみると、モメンヤ与右衛門家が27.79石、菊屋清三郎家が10.11石、ニシンジョ与三兵衛家が11.22石になる。また別資料によると中井忠兵衛家は、中兵衛ともいい19.19石である。

地詰帳の描く星田の豪農と中農

地詰帳には市橋、八幡、大久保三藩の請受農家の田、畠が2138筆描かれているが、一軒の農家が一五筆以上持っている農家を豪農、中農農家と定義している。これは本百姓(請受農家)は、せいぜい2~3筆ぐらいは、自作農として耕し、残りは小作農家によって耕作を支援されているのではないかと考えている。氏名は、当時は現在の苗字と名前の2段で区別する仕組みと違って、名前だけで、同名が多いと考えられるが、昔は、幼名と親になってから親の名前を襲名する家名制度をとっているところが多いため、2名以上の農家が同名で重複する場合は少ないと考えられ、とりわけ、庄屋や年寄などの高名な村役人の場合は、少ないと思える。従ってここでは、原則として氏名は家のあいだで重複がないものということを前提としている

星田寺
宮宅山花岳院として星田寺が描かれている。寺の横に十一面観音堂が描かれている
個人住宅について
個人の住宅が18軒ほど描かれている。本絵図が何の目的でつくられたものかはっきりしないが、まとまった資料が乏しく、個別資料からの拾いよみであるが、、平井三郎右衛門、谷九九兵衛、和久田武兵衛、和久田与治兵衛、和久田一兵衛、西川徳治郎の各宅は歴代庄屋に名を連ね、中井忠兵衛、三セ四郎右衛門宅は、当時の村役人の年寄に名を連ねているが、以上の人達はいずれも苗字の使用をゆるされていたのであろう。ほかにも苗字あるいは屋号などをもつ人が描かれているが、酒づくりの菊屋清三郎氏と並んでモメンヤ与右衛門氏が描かれている。当時の星田村は木綿産業の集積地で交野一帯でつくられた綿や木綿は最終的に星田村に流れていたとされているが(交野町史)、その重要な役割をはたしていたのであろう。

星田神社
星田神社の本社と背景として、交野明神、星田寺と三輪社が描かれている。交野明神は、現在星田神社の外宮の古宮のことで仁徳天皇を祀っていて、他の神社の文献から平安時代からあったとされる


三輪社の祠とこれに伝
わる伝承

民家の門前にあった祠であるが昭和50年ごろまであった。当村で最も古い神祠であるとの伝承がある。祭神は大和の三輪山の神を水田を守る神として祀っていたとされていた。ここは昔森であって飲料用の湧水があって、神職は、もともとは大和の三輪山からきた三輪氏が世襲で務めていたが地の有力者があとを継いでいたとされている。場所は先の垣内道の半円形状の道を星田神社の方に曲らずに直進したところにあった

大師堂は、松岳院大師堂という。星田には二四の町会があって、 野辺町 東辻屋町 上口町 札の町 東小北町 東畑所、乾町、半尺口 西中小路町 大谷北 大谷南 慈光寺、光明寺 星田寺の町内が管理する十五の祠があった。四月二一日には、大師講が務められた。この日は町内各家から二~三合の米を集めてつくたん(大きなおにぎりをきなこにまぶしたもの)をつくってお供えをし、参拝者などにふるまった

慈光寺と琴平宮
慈光寺を描いたものであるが、鳥居があって小さな社が描かれているが琴平宮が祀られていた。この宮も廃仏毀釈で廃宮となり、星田神社に移され、、新宮山八幡宮などと外宮で祀られている。
除夜の四辻橋
現在の中川は、管渠に埋められ道路となっているが、この時代は、橋が5本架かっているだけであった。中川の上流は紐谷川というが、中川の最上流の橋は、絵図の右の中程に園通院という寺が描かれているが、この寺のところに寺前橋という橋が架かっていたのが一番目の橋で、二番目がこの除夜の四辻橋で三番目として左のはすかい橋と続いていた。しかし円通院は、明治のはじめの廃仏毀釈にによって廃寺となり、今はな い。。

正面の高い塔のような建物は、高札場ともいい、おふれなどを表示していた。村の正などの役場などもあって当時の村のまつりごとの中心であった。手前の樹木は、慈光寺のものであり、その左側に中川に架かっているはすかい橋といって斜めの筋が入った石橋が架かっている。
.

当時平井家の屋敷は、方一町四方(約10000)、あって現存する神祖行営之碑と家康が宿泊した奥
書院の畳三畳ぐらいの上段の間の石積と現存する碑を描いている(西井正和氏解説)なお、堀は、現存し
ており堀を挟んで左側は当時の地名で外殿垣内(とうのかいと)で御殿屋敷を織り込んだ地名であろう。
地詰帳(文化五年)が描く小字とうのかいとの
年貢額と課税耕地面堰(推計値)
地詰帳の小字のとうとのかいには16筆の農家
が記載されている。1,3,4行目と最終行と
2行目、5行目から11行目の書き方が異なっ
ているのは、前者の4筆は市橋藩、後者の13
筆は八幡藩で異なっているが、市橋
藩は、4筆
合計で、耕地面積二反二畝ほどで年貢の石高は
三石一斗6升2合であるが、八幡藩は、書式で
面堰が記入されていないため、年貢の石高合計
は、10石7斗8升であり、当時の平均的な年
貢高である中ランクの田で、反あたり、1.3.
中ランクの畠で、反あたり1石で換算すると面
堰的にはほゞ10反(10,〇〇〇㎡)になり
、文化2年に記念碑や記念の石積みを作成した
後、敷地が耕地化され、文化五年の地詰帳では八幡藩の領地として年貢が徴収されているので
あろう。なお、市橋藩の領地は、2反2畝であ
るが屋敷内の田三枚(田三反)がこれにあたる
のであろう。





   
八幡藩と大久保藩の4筆以上の耕作農家
八幡藩 筆数 石高 大久保藩 筆数 面堰 石高
7 5.1 半兵衛 21 18.3 21.6
忠右衛門 6 7.1 半十郎 6 3.9 5.2
半五郎 . 6 4.4 上ノ喜右衛門 5 2.8 3.8
明意 5 3.8 三十郎 4 2 3.6
なべか半兵衛 4 3.7 4.8
喜右衛門 4 3.2 4

地詰帳による豪農、中農

農家名

石高

農家名

石高

農家名

石高

農家名

石高

農家名

石高

喜兵衛

6.28

三郎右衛門

31.68

二郎兵衛

13.84

同 大谷

5.76

又兵衛

6.69

同 西

4.93

同 辻や

15.44

十兵衛

22.03

長兵衛

17.73

西右衛門

10.21

同 なべか

8.12

三十郎

8.77

甚七郎

10.44

半兵衛

37.71

六兵衛

8.86

喜右衛門

18.72

同大谷

2.84

清三郎

10.11

半五郎

41.59

同 西

6.49

新二郎

7.45

清兵衛

13.98

平右衛門

21.77

久右衛門

19.83

同 大谷

9.4

善兵衛

8.87

彦右衛門

15.35

同 大谷

8.01

新右衛門

17.74

善三郎

8.47

彦兵衛

22.97

九郎右衛門

11.35

同 大谷

4.37

太郎兵衛

12.44

藤右衛門

10.72

久三郎

11.64

同 川

4.54

忠右衛門

21.9

仁右衛門

9.94

久七郎

8.07

庄右衛門

8.32

忠三郎

4.39

与右衛門

27.79

23.61

茂右衛門

11.98

中兵衛

19.19

与兵衛

19.89

五郎兵衛

9.07

次兵衛

10.42

長右衛門

7.69

与三兵衛

11.22




星田村大絵図、星田名所記、河内国交野郡星田村地詰帳が語る星田