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 明治維新で、幕藩体制から新政府の体制に移っていったが、市橋家ほかの領地は、その一部が明治元年2月に大阪裁判所、司農局に返還されその管轄になったのをはじめとして、その後の管轄が南司農局、河内県、西大路藩等の変遷を経て明治4年に堺県の所轄になり、明治14年2月に堺県の廃止により大阪府が管轄するようになった。

明治維新後の星田村   (明治17年12月大阪府誌―大阪府文書)

明治初年の星田村の家屋数

明治はじめでは、星田村は、北河内1の大村だった。

北河内では明治初年茨田郡、讃良郡、交野郡で154町あったが、星田村は、戸数377軒で、江戸時代から唯一町であった守口町の177軒より多く、明治22年の町村制施行によって、枚方町が、三矢(232軒)、泥町(30軒)、岡(76軒)、岡新町(100軒)、枚方(48軒)、伊加賀(134軒)の各村が合併してになるなど33ヶ町村に減っている。この明治22年の町村制時の交野の村の戸数は、郡津(93戸)、倉治(183)、私部(121)、傍示(11)、寺(69)、森(41)、私市(不明)、星田(377)であった。

江戸時代の星田村の領主と支配下の農民の数
江戸期の星田村は、3人の領主が支配し、それぞれの庄屋が統括していた。

  領   主

石 高

 家 数

  人 数

市橋家(長勝)領

1306石

313軒

1524人 

岩清水八幡領

 120

  9

57

今井家(後に大久保家)領

 109.8

10

50

  計

1535

332

1631

星田村 

明治5年2月以前 交野郡星田郷

同年2月  河内国第5区に編入

明治7年 堺県第3大区3小区

明治13年2月 区の名称を廃止

明治14年2月 大阪府交野郡星田村

星田村役場 光林寺内〈明治15年現在)

人口  1,961人(男  800人、女 861人)

   入寄者  43人     出寄者 29人

戸数

 本籍 422戸

 神社    2戸

 寺    7戸
牛馬 

 牡牛 10頭

 牝牛 63頭

 牡馬  1頭

人力車  4両

荷車   7両

  計 11両

山  哮が峯 小松山

川  天ノ川 妙見川 中川 傍示川

橋  上ノ橋(木製里道) 下ノ橋(木製里道) 小なべ橋(石製県道)


用水溝  中島溝(星田大池~最終一部茄子作村、一部私部との境界) 

小山谷溝(紐谷〜   最終天ノ川)   新溝(天ノ川~最終茄子作村)

池 大池 見取池 今池 全現堂池 妙音池 川尻ノ池

道路 東高野街道(県道) 岩船道(里道)  私市道(里道)  私部道(里道)

掲示場

堤塘  天野川、妙見川、傍示川、中川


滝   鮎返滝 菖蒲ヶ滝 同女滝 割林滝(注「聖滝」あるいは「なすび石の滝」のこと) 

同女滝
社寺  星田神社 小松神社(注星田妙見宮)光明寺 薬師寺 光林寺 慈光寺 小松寺

 善林寺 星田寺

学校 公立星田小学校(慈光寺を徴用す。明治9年現在)  生徒数139人 男63人 女46人

古跡 哮が峯 徳川家康館跡 小松寺廃跡

産業

醤油    20名

木綿   質良 1,800反

瓦    質可 200坪

渋    質不可 20名
以上京都、大阪及び近村に売却す(明治14年調べ)

民業  農業(専業)   425戸

    商業       30戸

    女性    自家の業に従事

貢租〈明治7年〉

地租 6、846円56銭 米 984石 山税   72円3銭   米  10石新聞税   26円81銭  米 3石
造酒税  95円38銭
醤油税    3円17銭
水車税    1円18銭
素麺税    16銭
賦金   5円91銭総計 7、052円


税地  明治8年改正反別田 191町5反2畝25歩
畑  38町7畝10歩
宅地 14町7反4畝20
藪地 5町3反6畝1歩
芝地 7町9反2畝16歩
山 369町2反6畝6歩  

総計 624町9反2畝28歩 約619,000u
(1町=992u)

星田の農家の石高(星田村地詰帳)
星田の農家の石高(星田村地詰帳)検地が行われると数量が変わり。この石高によって役人が年貢を徴収した

40石以上

30石以上

20石以上

10石以上

5石以上

1石以上

1石以下

  計

1(半五郎)

1(三郎右衛門)

   4

21

67

162

79 

335

半五郎や三郎右衛門などは、庄屋や年寄りなどの豪農である。



  禿山であった 星田の山は、天保8年(1837年)の星田の山の絵地図でぼって谷(星田新池の西側に流入している谷。)から東側の山の部分は、禿山、西側の部分は、繁り山と書かれた絵地図があるが、この地図においても地図の左上に描かれている禿山は、小松寺(廃寺)があった小松山であり、全くの禿山が、描かれている。下段の明治初期の実測絵地図でも、この地図では,山林、砂山、薮地を絵表示しているが、妙見山(地図の上部の黒い山で若林と書かれている。)は、縄文の森といはれて、樹木が密生していたが、これに比べて星田の山の他の部分は、砂山の黄色い部分がよく目立つ。 


 
妙音池 はじめは、新宮山の放生池として作られた。現在星田会館が浮かぶ形で建っている。弁天島は、昔のまま残っている。
 
上の池、下の池、今池 下の池は、中の池または、浅間堂池ともいって冨士浅間大日如来を祀っていた。上の池と中の池は、境の堤防がなくなり、一つの池になり、今池は、埋立てられて住宅になったため、現在は全現堂池1つになっている。大日如来は、コンクリートの収蔵庫で今も祀られている。
 星田大池 この池の完成によって池の下流で星田駅に近い御農、布懸、玉江などの低湿地穀倉地帯で大規模な水田耕作が行われるようになった。
 
 川尻の池 中川下流の池で臨港製鉄の南西の角付近にあった池である。枚方市茄子作との境界に池田尾という名前の小字があるが、この川尻の池の及ぶ範囲の端という意味で、北部の重要な池であった。一帯が工場になったために不必要となってなくなったのであろう。河童が住んでいるといわれ、河童の池ともいわれた.
星田新池、大谷新池 明治末期完成の星田新池と大正初期完成の大谷新池は、当然のところ地図には載ってない。星田新池が完成しても星田駅周辺は、水のいらない綿花畑であったが、大正期に入って大谷新池が完成すると駅周辺に水田が広がったということである。
天野川 遠くは生駒山の中腹にも源があり、長い流域でゆっくり高度を落とし、豊富な水とゆったりとした流れは、水田耕作にとって条件が整っており、流域では、弥生期からすでに、稲作が行われ、奈良期の大化の改新で条理制がすでに施行されていて、天皇の米蔵である三宅ともなったが、この川が中心的な役割を果たしてきたのであろう。
星田では、藤が尾以北の下流で、天野川に接しているが、妙見川と天野川の合流点以南、以西は、両川の扇状低地、後背湿地であり、最高の良水田であったとされる。
左 星田名所記(明治のはじめ)
右 妙見口(昭和40年頃)
の妙見川の天井川
妙見川 下流に東川(妙見川のこと)荒れ東西200間(360m)、南北33間(60m)の相当大きな水害被害地の表示があり、もともと天井川になっており、度々被害を起こしたのであろう。

 傍示川
 下流に不おじ川(傍示川)あれ、東西96間(175m)、南北77間(135m)荒れと広範な河川氾濫の被害地が表示されている。明治末期の星田新池の築造など絶えず水害と戦ってきたのであろう。
  傍示川の名称の起源
 傍示川は、短い流域で、急激に高度を落とす地形や禿山が多く一度に雨水が流出し、さらに火山岩である花崗岩が多く、土砂の流出が激しいなど、河川の管理上の悪条件が重なって度々氾濫をおこすため、中川の西側は、古くは、牧場(星田牧)として使われてきた。平安時代の末期に飼育していた牛馬が病気で死んだが、その頃淀川の大洪水があり、三島郡上牧の為 牧(いねのまき)の牛馬を飼育することになり、その傘下になったが、税の採りたてが厳しく、属地扱いされるため、奈良興福寺別院として寄進し、その荘園として庇護を受けることになった。傍示とは、目印のことで、ここでは荘園境界に川を用いたため、この川に傍示川という名がついた。
 
中川 上流は、紐谷川というが、傍示川と妙見川の周辺が高くなっているため、その盆地状になったところの湧き水が主体で、小さな川で管理がしやすく、水もきれいで描かれている三つの池や妙音池などに見られるように灌漑用水の力を借りて、水田耕作が広まっていき、中川の周りに村が大きくなっていったのであろう。

村落形成  中川を中心に大きな村落を形成している。

            飛び地として、大谷地区(現星田6丁目、寝屋川市大谷)に住宅が並んでいる。


   東高野街道  真言宗の根本道場である京都の東寺と高野山を結ぶ道であるが、道幅は、江戸時代は、6尺(1.9u)、明治時代になると、8尺(2.5m)が基準となっていて、車がせいぜいで片方向で通れる道幅である。徒歩交通時代は、明治、大正を通じて幹線道路であり、この道幅でよかったのであろう。東高野街道は、明治時代における唯一の県道(14年までは、堺県、府道であり、山根街道、私市道、私部道など他の道は、里道となっていた。昭和7年に枚方・富田林・泉佐野線が開通するまでは、幹線道としての地位を保ってきた。高野街道は、街道沿いとして、交通量が多いので、農業以外の仕事があり、その分裕福であったとされる。

 山根道  旧石器時代(1万〜2万年前)からの石器の原材料のサヌカイト(讃岐石)は、割れ口が鋭い刃になるため、動物の皮の裁断、肉の分別などハサミや包丁の役割をし、また、槍のに用いられるなど、古代人の生活に欠かせないものであったが、この石は、近くでは、二上山だけしかなく、山根道は、その交易路であったとされる。交野地方の旧石器時代の遺跡は、藤坂宮山、津田三ツ池、神宮寺、星田布懸、打上、忍ヶ丘という風に山根街道に沿って続いていて、この道も広域路である。山根街道の定義は、時代によって異なり、山根街道から分岐し、寝屋に通じている道があるが、山根街道ということも可能である。

東枚方街道 川尻の池の横に描かれている道である。この道は、現在の道に例えれば、中川通り千原から、枚方・富田林・泉佐野線と神出来(かんでら)の交差点の南で交差し,藤田川から枚方に向かう道があるが、この道の前身にあたる道である。明治時代の関西鉄道(JRの前身)が明治31年開通した時、京阪電車の開通予定が、明治43年と10年以上後になるため、星田と枚方を結ぶ道として、その時東枚方街道として拡幅された。

  


古地図・古資料から見る江戸期・明治期の星田


元禄時代の星田村の村落・道・川・池・山