明治維新で、幕藩体制から新政府の体制に移っていったが、市橋家ほかの領地は、その一部が明治元年2月に大阪裁判所、司農局に返還されその管轄になったのをはじめとして、その後の管轄が南司農局、河内県、西大路藩等の変遷を経て明治4年に堺県の所轄になり、明治14年2月に堺県の廃止により大阪府が管轄するようになった。
江戸時代の星田村の領主と支配下の農民の数
領 主 |
石 高 |
家 数 |
人 数 |
市橋家(長勝)領 |
1306石 |
313軒 |
1524人 |
岩清水八幡領 |
120 |
9 |
57 |
今井家(後に大久保家)領 |
109.8 |
10 |
50 |
計 |
1535 |
332 |
1631 |
星田村
明治5年2月以前 交野郡星田郷
同年2月 河内国第5区に編入
明治7年 堺県第3大区3小区
明治13年2月 区の名称を廃止
明治14年2月 大阪府交野郡星田村
星田村役場 光林寺内〈明治15年現在)
人口 1,961人(男 800人、女 861人)
入寄者 43人 出寄者 29人
戸数
本籍 422戸
神社 2戸
寺 7戸
牛馬
牡牛 10頭
牝牛 63頭
牡馬 1頭
車
人力車 4両
荷車 7両
計 11両
山 哮が峯 小松山
川 天ノ川 妙見川 中川 傍示川
橋 上ノ橋(木製里道) 下ノ橋(木製里道) 小なべ橋(石製県道)
用水溝 中島溝(星田大池~最終一部茄子作村、一部私部との境界)
小山谷溝(紐谷〜 最終天ノ川) 新溝(天ノ川~最終茄子作村)
池 大池 見取池 今池 全現堂池 妙音池 川尻ノ池
道路 東高野街道(県道) 岩船道(里道) 私市道(里道) 私部道(里道)
掲示場
堤塘 天野川、妙見川、傍示川、中川
滝 鮎返滝 菖蒲ヶ滝 同女滝 割林滝(注「聖滝」あるいは「なすび石の滝」のこと)
同女滝
社寺 星田神社 小松神社(注星田妙見宮)光明寺 薬師寺 光林寺 慈光寺 小松寺
善林寺 星田寺
学校 公立星田小学校(慈光寺を徴用す。明治9年現在) 生徒数139人 男63人 女46人
古跡 哮が峯 徳川家康館跡 小松寺廃跡
産業
醤油 20名
木綿 質良 1,800反
瓦 質可 200坪
渋 質不可 20名
以上京都、大阪及び近村に売却す(明治14年調べ)
民業 農業(専業) 425戸
商業 30戸
女性 自家の業に従事
貢租〈明治7年〉
地租 6、846円56銭 米 984石 山税 72円3銭 米 10石新聞税 26円81銭 米 3石
造酒税 95円38銭
醤油税 3円17銭
水車税 1円18銭
素麺税 16銭
賦金 5円91銭総計 7、052円
税地 明治8年改正反別田 191町5反2畝25歩
畑 38町7畝10歩
宅地 14町7反4畝20
藪地 5町3反6畝1歩
芝地 7町9反2畝16歩
山 369町2反6畝6歩
総計 624町9反2畝28歩 約619,000u
(1町=992u)
40石以上 |
30石以上 |
20石以上 |
10石以上 |
5石以上 |
1石以上 |
1石以下 |
計 |
1(半五郎) |
1(三郎右衛門) |
4 |
21 |
67 |
162 |
79 |
335 |
半五郎や三郎右衛門などは、庄屋や年寄りなどの豪農である。
村落形成 中川を中心に大きな村落を形成している。
飛び地として、大谷地区(現星田6丁目、寝屋川市大谷)に住宅が並んでいる。
山根道 旧石器時代(1万〜2万年前)からの石器の原材料のサヌカイト(讃岐石)は、割れ口が鋭い刃になるため、動物の皮の裁断、肉の分別などハサミや包丁の役割をし、また、槍のに用いられるなど、古代人の生活に欠かせないものであったが、この石は、近くでは、二上山だけしかなく、山根道は、その交易路であったとされる。交野地方の旧石器時代の遺跡は、藤坂宮山、津田三ツ池、神宮寺、星田布懸、打上、忍ヶ丘という風に山根街道に沿って続いていて、この道も広域路である。山根街道の定義は、時代によって異なり、山根街道から分岐し、寝屋に通じている道があるが、山根街道ということも可能である。
東枚方街道 川尻の池の横に描かれている道である。この道は、現在の道に例えれば、中川通り千原から、枚方・富田林・泉佐野線と神出来(かんでら)の交差点の南で交差し,藤田川から枚方に向かう道があるが、この道の前身にあたる道である。明治時代の関西鉄道(JRの前身)が明治31年開通した時、京阪電車の開通予定が、明治43年と10年以上後になるため、星田と枚方を結ぶ道として、その時東枚方街道として拡幅された。
古地図・古資料から見る江戸期・明治期の星田
元禄時代の星田村の村落・道・川・池・山