古資料、古絵図から見た江戸、明治期の星田 1 (小字地名から見た地史)
(元禄・天保・明治初期の絵図)
市橋藩、八幡藩、大久保藩の領域星田村の領主は、市橋藩が1306石、八幡藩が120石、大久保藩が108石の相給村であるが、八幡藩は豊臣秀吉が八幡八幡宮に対して、かっての荘園主であったことを踏まえて、120石の領地を与え、徳川家康もそのまま引き続き領地が与えられたとされており、また、新たな幕藩として貞享4年(1687年)に108石が永井藩に与えられ、そのまま大久保藩に引き継がれため,三藩が保有していたとされている。
八幡藩の領地は、豊臣秀吉によって与えられた領地は、小字名で印字山を含む地域で、徳川家康もそのまま8石7斗7升の朱印状を八幡藩に与えているがこのため印字山(ねんじやま。)の地名が残っている。ほかに小字の防龍は、新宮山の八幡宮の社坊であった愛染律院の坊領とされこの付近で120石の領地があったのであろう。印字山は、東はついしょう川、西は東川(妙見川)、北側は山の根の道に囲まれた小山地帯で、昔は藤の花がよく咲いていたので藤が尾の語源になっている地域である。
元禄絵図では、八幡藩の領地は、以上の歴史的経過と異なり、領地を中川の西側に2カ所に分かれて描かれている。
八幡藩の1か所目は、村の中心部から寝屋に向かう道と東高野街道の交点の西北に描いていて、この場所は現在でいうと正にJRの星田駅の敷地からその東あたりである。八幡藩のもう一つの領域は川尻の池の南、光林寺の東で御殿屋敷の西の地域である。川尻の池は新関西製鉄(旧臨港製鉄)の南西の角の交通事故慰霊塔あたりにあった池で、池の大きさは1反(約1000㎡)である。御殿屋敷とは徳川家康が大阪夏の陣の際、宿院したとされる屋敷跡で1町(1ha)ぐらいの大きさであった。小字の外殿垣内が御殿屋敷にあたる。
大久保藩の位置は、小字名で平池、小池と名がついていて、昔はその名のとおり池が沢山あって溜池農業地帯であったと思われる。.この辺の地形は寝屋村あたりから西側に流れている天の川に向かって傾斜で下降している地形で、大久保藩の領域は高い台地状の位置にあり、平安から鎌倉にかけては星田牧という牧場に使われていたところである。市の西という小字には牛馬市があったところであるとされている。元禄絵図で描かれている八幡藩、大久保藩の領域は、かっては星田牧とも呼ばれ、特に八幡藩の現在の星田駅周辺は、標高45mから50mと高い地盤のところであり、大久保藩の領域はその北側にあり、これらの地域に用水を送るには、古くからの用水である湧き水が源流の中川からでは無理で、標高6~70mの高い位置につくられて星田山中からの豊富な山水を取り入れている星田大池からの灌漑によってでなければ水田耕作は不可能で、大久保藩に新しく知行されたのは、星田大池は、寛永14年には一部であるが、できあがっていてその頃、星田村では大開墾が行われていて、星田大池の築造は多分その頃の施作の柱であったのだろう。その結果貞享4年にはじめに永井藩に知行され大久保藩に移藩されたものであるが、八幡藩についても、水田可能区域の北星田地区への広がりによって、印字山,防龍地区から東高野街道沿いの六路、地区(現在の星田駅周辺)に領土が移設されたのではなかろうか
不おじ川あれ、東川あれ
不おじ川(傍示川)あれ東西96間(175m)南北77間(140m) 東川(妙見川)あれ東西200間(364m)、南北33間(60m)の記載があり、傍示川、妙見川両川それぞれに2~2.5ヘクタールの荒れ地(洪水被害地)が描かれている。星田村役場保管の古記録で元禄11年4月17日の御普請人数の覚えとして大池堤の砂止170人、同5月14日367本枕木7村より出し候.内50本山門、25本大池堤、20本行人堤、100本ほうじ川とあり、この復旧工事のことではないかと思われる。
道概念図の右上の打上村から2本の道が描かれているが右の一里塚を通っている道は東高野街道で左の道は山根街道である。、前者は、京都の東寺と高野山を結ぶ当時の国道級の道であり、大谷地区(現星田7丁目)から現在のJR星田駅前広場の南側に沿う形の道幅3.5mの道で北星田地区に抜け、昔は天野川を越えて私部村に通じていたが昭和39年頃臨港製鉄(現新関西製鉄)によって分断されている。後者は山根街道であるが、普通は八幡宮があった新宮山の西側の梶が坂(狸藪)、今池の北、星田寺の南から垣内川(潅漑水路)沿いの道で辻屋裏(妙見口)を通って私市に抜ける道のことをいうが、この地図では新宮山の北側(半尺口)から中川通りに結んでいる。寝屋村に通ずる道は、慈光寺からは,現在の道にあてはめると星田小学校の東の道(西の村の道。)から六路の交差点、大正天皇のお立ち見の記念碑を経てJRの星田駅に向かう本道である。寝屋村へは現在の高架駅の下をくぐって駅の西北にある星田池の西側に接する道幅一車線の道でこの道も山根道と呼ばれた。山根道は,けもの道を起源とする古くからある広域交通路のことである。
中川と中川水系の池川は星田の山と川で後述するが、傍示川、東川は星田の山水を直折受け入れていて大雨時にはたびたび氾濫を起こしあれを作ったと思われるが、中川は湧き水起源の川筋であり、古代から水田開発の中心であった川である。川沿いには、上の池、中の池、今池の3つの池が描かれているが、厳密には此の付近は中川の上流にあたり、紐谷川といわれていたが、この3つの池の付近は小山谷と呼ばれて水源地としての開発が行われていた。上の池は江戸初期の地図に新池と書かれていて、ほかの池はさらに古い。中の池は、現在でも富士浅間大日如来を祀っているが地図から20年ほど逆のぼる延宝5年(1677年)に仏像を富士浅間神社で開眼供養を行ったときから浅間堂の池ともよばていたが、明治の頃から上の池と中の池の境の堤が消滅しはじめ1つの池になり、また今池は、昭和30年代末に埋め立てられ住宅地になった。現在は全現堂池が残っている。
妙音池は、新宮山八幡宮の放生池として鎌倉時代に作られたとされ最も古い。
川尻の池は現在の府道交野久御山線沿いの交通慰霊塔付近にあった大きさは、1反。かっぱが住んでいるという伝承があった
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星田大池星田大池1町3反との記載がある。この池の創設年代は不明であるが、寛永14年(1638年)にこの池についの村の記録があり、これ以前とされている。丁度この時期から星田村の新田開発が始まっており、その時の中心施策であったのであろう。この池は、御農、布懸、中島、玉江などの周辺はもとより、現在のJR学研都市線の北側を含めて潅漑能力を高めるのに役立って、最大時は6町(6ha)にまで拡幅され、昭和50年に交野三中の建設のため埋め立てられて3.9haになったがそれでも交野市内では最も大きな池である。池は、高岡と楯石、梶が坂の丘陵に挟まれた広い谷地を堤防を築いて塞き止めて造られたものであるため、初期段階では図のように銀杏の葉っぱ状の形をしていたのであろう。その後池の拡幅のため、高岡山を取り崩し堤防を嵩上げしていった結果、水位が高まり現在の方形に近い形になったのであろう。
園通院中川に橋が5本架かったいたが最上流の橋を寺前橋といったがその南側に橋の語源となっていた立派な浄土宗のお寺であったが明治5年の廃仏毀釈で廃寺になった。中川は寺前橋から下流で、ここから上流は、紐谷川といった。
松丘庵現在星田公園になっているが、新宮山八幡宮の宮寺であった愛染律院の末寺であったが,愛染律院が廃仏毀釈で廃寺となったが本寺も廃寺になった。現存する松丘大師堂の東側にあった。
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小字地名と灌漑水路天保の絵図は、元禄絵図に比べて灌漑水路と小字名の記載が充実している。これは、星田大池が元禄地図では1町3反の大きさであったのが時期は不明であるが最終的には4倍の6町まで拡大している。高岡山を削って土手を嵩上げし、池が大きくなってゆくと同時に一方河川や灌漑水路の布設整備が進んできた結果、畑作から水田化が進んできた。小字地名は、地詰帳(検地帳ともいう。)といって検地する際に作られるもので、当時の年貢取立てのための土地の基本台帳といはれるものであるが、これに記載の耕作地の地名がまとまってその地域の小字名となる場合が多い。畠作主体の場合は、作物の数も多く、いろんな地域間の事情も異なり、多様化している。それぞれ多様化した農産物の生産石高によって年貢の支払いをする仕組みになっていた。灌漑施設が整い、水田耕作が増えてくると1反当たりの生産石高という評価基準が単素化され同一ランクの地域が合体しやすくなり、小字の単位面積を広げ、その分小字の数の減少をもたらしたのであろう。その結果60ぐらいあった小字の数は明治初期には30ぐらいに半減することになる。このように灌漑用水の整備と水田地域の普及、小字地名の成熟が進んだのであろう。
傍示川絵図の上部(地図は南上位で南側。)は傍示川で東側は二つに割れているが上の川はぼって川、下の川は地獄谷川である。ぼって川には明治時代末期に旭縄文遺跡付近にあった旭(小字名)の山を2つ削り、その上流に土手を築き、星田新池が作られることになる。下の川は現在の南星台4丁目から星田の山中に源流があって正式には地獄谷川というが現在は傍示川の上流扱いされている。絵図では地獄谷川と両川の合流地点付近に水門が数箇所作られており、上流で中川の上流の紐谷川の上の池に、合流地点近くで星田大池に向かう水路(後者は狐川という。)が描かれている。水門では大雨時には傍示川に流すが平常時は用水として両池に流し、傍示川は降雨時以外は流量がほとんどないという現在の方式がすでにこの時から採用されていたことが想定される。
なお、紐谷川の上流が東川(妙見川)に接近しているが。この段階では妙見川の水は、傍示川経由で星田大池に流入していない。
中川水系と星田大池水系
明治の始めに発行された星田村の概要を示す公文書に星田村の用水溝として紐谷川、中川から天の川までの小山台溝と星田大池から茄子作り、私部との境界の中島溝と書かれている。小山台溝は、元禄絵図でも書かれているようにように中川・紐谷川と川沿いに作られた池を源水とする系統である。絵図で見ると今池からでている用水溝は古くから中川の西側の地域に給水していて、現在も残っている。星田大池は、新しい池として地図に示すように高い位置に星田の豊富な山水を活用してつくられた池であり、みののところで枝分かれしているが、ここは5辻といってここから4方向に分かれて周辺の給水を強化するとともに現在の星田駅周辺は地盤が高くなっていて中川系統では物理的にとどかない北星田地域を含めて給水範囲を広げた。なお5辻のところが絵図では6辻になっていて1本は、あまつげ川といって現在はないが昔傍示川は、高岡山の東側つまり星田大池のところを流れていたとされ、この川は、古代の傍示川といはれる。 寝屋村(現在は寝屋川市)は星田大池の水利権を持っていて星田村は10日使った後寝谷村が1日給水するということであるがその経緯はつかめていないが建設経費を負担したというよりもあまつげ川の廃止の際の代替措置でなかろうか。
万願池
万願池が大きく描かれているが元禄絵図にはない。位置はこの地図ではわかり難いが後述する明治初期の堺県星田村絵図では具体的に小さく描かれている。この場所は、星田山の中腹のぼって川沿いにある。
星田の山は、土砂の流出が激しくこの位置では自然に池ができるところではなく、人工的に作られた池と考えられる。池の目的は、将来この先に星田新池が作られるが、同様の目的(遊水地)で作られたのではないかと思う。
交野市小字地図・元禄地図・天保絵図の合成地図は、原図は現在の地図であるが柿色は元禄黄色は天保緑色は寝屋村の小字名を表示している。赤字は天保絵図の小字名を表示している。
市の西付近、車司付近は元禄期が畠地であったものが天保期には水田になったことを示している。
星田村大絵図
星田村大絵図は縦184cm×横180mの大絵図であるが星田村の居住区について道路や区画について詳細で正確な記載がある。この地図の作成時代は江戸時代で詳細は不明となっているが、右の住宅地図は、明治13年に村で伝染病についての連判状を作成した際に作られたものであるが区画の道や中央に流れている中川の描き形などが似ており、また星田大池がきれいな方形にかかれていて、幕末のかなり遅い時期に作られたことが想定される。 幕府のおふれなどを表示する政治の中心地であったとされる割札場や仁正寺、八幡藩の領域と八幡藩と小田原領の税札とともにかっては岩清水八幡宮の中心であった新宮山は八幡領除地の念書きがある。住居は、辻や、堂坂、なべか、畑堂などに平井、和久田(東、西)、谷、中井などの苗字を持っていて、古資料に庄屋、年寄などに名を連ねる豪農や菊屋また星田は、綿花や機織などの木綿産業が突出していたとされるがモメンヤなどあわせて屋敷図が20軒ほどが描かれている。星田神社の山車(だんじり)は現在はお旅所に2基が納められているが、昔は東西に分かれていて祭りの日には競い合ったという伝承があるが、薬師寺の近くに壇尻蔵が描かれていて昔は東の山車はここに収納されていたのであろう。教学院(慈光寺の末寺)、貞松庵(光林寺の隠居寺)は、明治初期の廃仏毀釈で廃寺となった。
星田名所記(などころき)が描く江戸期文化文政の図画
堺県管下河内国第三大区九番領星田邨萬分之六図
星田の山と雨水の水系
星田の語源は、干田といはれる。これは、中川以西の地は、星田の地形でみたように台地になっていて、鎌倉時代以前は星田牧という牧場に使われていたことからこのようにいわれていたのであって、星田の南側は広範な山岳地帯を抱えていて、そこに降る雨水は傍示川や東川(妙見川)に流れ、大雨時の洪水による荒れや流出堆積土砂の除去の問題も大きかった。星田の山中の谷筋は短い水系で高い流水勾配で、しかもはげ山が多かったため、雨水や流出土砂の排除に当時の住民は苦しまれてきた記録が残っている。一方で水源としての利用は、傍示、東川両河川とも大雨時の流水時のための防災河川として利用し、平常時は中川や流域の池に流すことなど、天保の絵図では水源としての利用がはかれれていることが見られる。地図で天の川水系は、小字名で大谷、南谷地区で現在の府民の森がほとんどを占めており天の川に直接流入している。妙見川水系は、小字地名で小松、菖蒲が滝で妙見川の上流は小松谷川と呼ぶが、廃小松寺の南から流れている。傍示川水系は、地獄谷川水系とぼって川水系に細分化できるが、小字地名で地獄谷の中央に尾根筋が走っているがこれを境界に東側は袋谷といって現在の南星台4丁目付近で傍示川に流入し(厳密にゆえばぼって川との合流地点までは、地獄谷川というのが正しい。)ぼって川は、明治の末期に星田新池が作られていて現況では、星田新池からの放流水となっている。小字名では茨尾、ぼって、池ノ内、割林、早刈など通称星田山と呼ばれる山の東西をはさむ形で流れているぼって谷となすび石の谷が合流してぼって川となっていたがその広範な地域を流入域としていた。現在の星田新池はぼって川の水を完全封鎖型になっており氾濫することは考えられないが、それ以前の状況を地図で見ると傍示川に近いところに旭の山が2つ並んでいて(この山は新池の堤防築造のため削り消滅したとされる。)、平常時はその麓から小字の地下下を流れている狐川を通って星田大池に流入していたが、降雨時の余水は傍示川に流れていて、大雨による傍示川あれはしばしば起こったであろう。打上川水系は、現在の星田新池の西側からぼって川の西側に沿って逢坂道という尾根道が走っている。この道の西側には南部では西谷がY字型に流れていて久保池から打上川に流れている。北部には深谷川、長谷川が流れているが深谷川は大正の始めに大谷新池が作られその系統に含まれたであろう。
星田大池の変遷を歴代の地図で見てみると、元禄絵図では大きさは1.3町(1.3ヘクタール)で最盛期の4分の1で、池の北側は紐谷小山谷地区の3つの池を尺度にすると北限は上の池までで池の北側には高岡山が描かれている。形状はいちょうの葉風であるが高岡山などを削り、土手の嵩上げを進め,水位を高めて現在の方形に近い形になっていったのであろう。
天保の絵図では大池の北限は中の池の北までで、大きなみどり池が描かれている。明治18年の地図と比較するとみどり池は大池に吸収され、大池の先行池として、本体大池の工事中の際の代替機能のバイパス池としt作られたのではないかとも見える。、なお、元禄絵図にはみどり池はなかったのか描かれていない。星田村大絵図はかなり幕末よりの作成と見られ方形に近くなっており、みどり池は小さくなっていて池の南側に移行しているが、傍示川がとりまくように概念的に描かれていて必ずしも位置が変わっているとも思えない。明治初期の地図は、ほぼ昭和38年の大きさ6町に近づいていたであろう。現況では池の上流側に交野三中が建っていて、大きさ4町に小さくなったがそれでも交野市では一番大きな池である。