現在の小松山は、ゴルフ場になっており、全くといっていいほど当時の面影はないが、この地図で当時の山道を見てみると、絵図記載の山道は,赤い線で見やすいようにしている。小松山の出入口は,西の大門と南の大門があった。西の大門からは西門坂を下ると現在の北山師岳から北の小門遺跡(北の小門の項参照)、から府民の森まつかぜの道に通ずる尾根道の北の小門遺跡の10mほど東側で継っていた。(西門坂の項参照)、星田に向かう山道は,萱尾八丁の山坂道、宗円ころりの道、はしご坂道などがあったが星田からの参拝は、村人は、ほとんどが萱尾八丁の山坂道を使っていたとされる。(星田からの参拝道としての山道の項参照)
南の大門からは、小松山を降りたところを東に小松谷川に沿って行くと上流の谷川との合流地点不整形の四辻と呼ばれたところに達し、この四辻を北に行けば平坦な下りの沢沿い道が続き菖蒲の滝を経て妙見川に通じている。四辻を東あるいは南に行けば、南田原、岩船神社、岩船街道に通じていた。また南の大門の坂を降りたところを右に上流に向かって進むと逢坂(現四條畷市)や清滝街道に通じていた。
自動車のない徒歩交通の時代には山越えは、最短のルートであり、交通体系の主体であった時代があったが、その意味からは、小松寺は、交通の要所にあったとも言えなくもないが、真言宗東寺派のお寺として、平安期には山岳仏教として栄えたが、鎌倉期になると法然、親鸞、日蓮などのいわゆる鎌倉仏教が起こり、広がる一方で、小松寺は、人里離れたところにあることもあって、その寺院としての機能を徐々に失って江戸末期の1703年に廃寺となった
南の法面を南からの視点で見た小松山。
廃小松寺は、江戸元禄期の1703年に本尊の十一面観音を星田神社に移して廃寺となったが、明治初期のこの地図でも絵地図で小松山の全体像と当時現存していた南北2箇所の堂跡と鐘堂跡を描いている。この2箇所の堂跡は、廃小松寺の伽藍配置で述べるように,北側の堂跡は、本堂で、これと10mほど離れてたっていた鐘堂である。南側の堂跡は、南谷にあったとされる御倉であろう。中央の茶色くぬってあるところが,小松山であるが、その右下の北側斜面に書いてある小松は地名(小字名)で、南側の小松谷川を越えてこの地図の最南端で北田原邨(現在の四條畷市)との境界までの地域をいった。その右側に北谷という文字が書いてあるが、これは多分地名であろう。小松寺縁起の伽藍や施設名称を理解するために、大きなヒントを与えてくれるものである。縁起では小松寺にあった伽藍や施設を表すのに、東谷宝蔵、南谷御倉、西谷食堂、北谷閼伽井、同毘沙門堂など方位のついた谷が名称で使われており、また金堂,根本草堂、鐘楼などついては、全くついていない。詳細は、小松寺の伽藍配置の項に譲るが、東谷,西谷などは、地名で、その方位にあった谷などの山の法面だけでなく、そこから上の台地部分を含む広範囲な地域の地名であったのであろう。他方、方位のついてない6つの伽藍や施設は、寺の中心部に集中してあったのではなかろうか。
この絵図で小松山周辺の地名や山道ルートを見てみると、地名は、山の南側は、小松であることは既に述べたが、東側は菖蒲が滝で、小松谷川は,下流は、妙見川(古くは東川といった。星田中川に対する対義語であろう。)であり、途中同名の滝があるが、この滝の上流下流で川の名称が小松谷川から妙見川に変わる。この地名の由来は、この一帯で昔、小松寺の僧侶達が,副職で,薬草として菖蒲を植えていたからとされている。北側は、茨尾といったが、一般に星田の山ははげ山が多かったとされているが、ここも茨のような潅木が多生していたのでこのような名前がついていたとされている。西側はなすび石の谷(星田新池の東側に流入している谷。が流れていて、小松山の西北の麓あたりに池があって、そこは、ひさごの淵といって深淵な池の名所があったが、星田山頂上(馬が峯)の尾根筋からなすび石の谷に向けての東斜面一帯を池の内といった。


小松寺の創建は、西暦845年の荒山寺とされ、当時この山は、草木もなく,荒涼たる岩砂山であったことからの命名とされているが、明治初期のこのちずにおいても、小松山はその周辺の地域を含めて、山林が少なく、岩石、砂、薮等の禿山が目立っている
地図の正式名称は、堺県管下河内国第3大区星田邨萬分之六図といって実測地図であるが、山岳部分では現在の等高線ではなく、山の高さなどは、山の形で立体表現され、山道や,河川のルート、山林,岩砂山、藪地、砂山などの土地の詳細な状況を凡例をきめて表している。山の形状は全般的には南視点で示しているが、名勝など特殊な場合は、北視点や東視点(哮ヶ峰の周辺)で書かれている場合もある。
小松山の場合、北側の斜面や堂跡嶺などは、北側からの視点でかかれているが、堂跡や鐘堂の文字が逆になっており、樹木地帯の樹木が逆に描かれているのは南からの視点で、法(のり)面全体がそのように描かれていて、従って小松山の場合、北斜面は主として北視点、南斜面は南視点が主で立体表現がされてる。伽藍は、後述するように懸崖の上の台地に集中していたとしているが、絵図では、この懸崖や南の大門の道の両側に石垣などが残っていて描かれている。
片山先生が描いておられる光景は、当然想定部分もかなりあると思うが、写実に近いものであるかも知れない。
明治初期の堺県星田邨実測絵地図が描いている小松寺遺跡とその周辺
交野市史の編集をはじめ北河内郷土史と絵画にも造詣が深い片山長三先生が昭和22年に描かれた小松寺の絵画である。当時は原型がかなり残っていたのであろう。小松山の南の大門側の入口が描かれているが,小松谷川(妙見川の上流。)からは、5〜60mの昇りになり、長い階段道が描かれている。階段の下の道と小松谷川との間の小高いところに、時代は戦国時代に下るが、楠木方の武将であった和田賢秀の墓が書かれている。この墓は現在ゴルフ場9番のティグラウンドの傍に交野市が建てた小松寺遺跡の碑の近くに立っているが、四條畷市史では、この墓は元々100mほど北東に立っていたものを移設したもので小松寺の敷地の広さの例として記述しているが、その元の位置に描かれている。絵画の左上の高い山は、なすび石の谷を挟んで対峙している星田山山頂の馬が峯(273m)である。
絵画は「長三絵日記」(片山長三著)より
ゴルフ場4番ホールティグランド近くに立っている小松寺遺跡の碑と和田賢秀の墓(下)
廃小松寺は、平安期の845年から江戸元禄期の1703年まで星田山中の小松山にあった七堂伽藍の真言宗東寺はのお寺である。昭和40年頃からゴルフ場(現在は、ゴルフクラブ四條畷。)の一部になっている。小松寺があった頃の小松山は、図で描いてるように、山の東側と南側は、小松谷川が流れていて、西側は、なすび石の谷(現在の星田新池の西側に流入している谷。)の上流が流れていた。北側は、星田の邨側で、小松山に平行して尾根筋が走っていて、この尾根筋は、現在の北山師岳から,北の小門遺跡から馬木の峯や府民の森星田園地のまつかぜの道に通じている道で、昔は、この東西の尾根筋と小松山との間が図の西門坂という南北の尾根筋でつながっていて、そこに西の大門が建っていた。ゴルフ場造成のとき、この星田側と結びつけていた西門坂の尾根筋が削られて4番コースになったため、現在は小松山は星田側と分断されているほか、コースで削られ現在見かけ上のこっている小松山は、せいぜい2〜3割程度である。小松山の形は、東西に長い、やや四角っぽい形をしていて、三層の階段状であったとされ、オープンスペースの活用が容易な比較的まとまった形状であったと思える。小松寺の入口は、星田側からは西の大門が、また小松谷川や逢坂、田原等の南側からは南の大門があった。廃小松寺は、小松寺縁起によれば、大谷7、小谷19、大道3、小路5があり、根本草堂(本尊観世音菩薩。)、金堂(本尊弥勒菩薩.)、講堂,宝塔、鐘楼,経蔵,宝蔵,御倉、食堂、毘沙門堂、西の大門、北の小門や坊宇67宇,僧衆120人,児童(小僧)38人がいた大寺とされている。この小松寺縁起や史跡調査結果から小松山の全体を想定したものである
小松山縁起とは、続群書類従に記載されているもので、続群書類従とは、平安末期に東寺で記載されたものから応永年間(1394〜)に塙保己一の検校により筆写されたものである。

表紙に戻る