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新仏道しるべ地蔵     現在星田墓地の入口にある地蔵さんであるが、昔星田からの葬列は、中川の堤を北に下って、当時あった川尻の池の手前から西に折れて墓地に行ったが、中程で北から南西に向う東高野街道と交差したが(現在は、臨港製鉄の敷地内。)その辻に建っていたもので、臨港製鉄建設の折に、ここに移されたのであろう。この石仏は、昔は、北面していて、よく牛がつながれていた。現在の地蔵は、額と左眼あたりに傷あとがある。鼻も口もない。肩幅(15.5cm)が広く,裾幅も同じ(15.5cm)腰周りが少し細めで美しい。慈光寺の双仏石とよく似ている

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小なべ橋(墓の前橋)

中川から流れてきた川は、墓地に沿って南方向から西北に進路を変えるが、墓地の入口のところにある石橋。「墓の前橋」、「明治37年7月」と彫ってある。この橋は、東高野街道(当時星田では、唯一の府道。)の一部で,橋は、当時上の橋、下の橋(これらの橋は、私市道あるいは私部道で天野川にかかる橋。)など一般里道の橋では、木製であったが、この橋は、唯一石橋である。

島田の田(偉い人の墓)

「臨港製鉄の社宅の南にある田は、島田の田というが、その田の中央から南の土盛りは、武士の墓であり、耕したらばちがあたるといわれている。」と交野古文化同好会の機関紙「石」で証言する人があったが、偉い人の墓といって鳥羽伏見の戦いで死んだ武士の墓である。
慶応3年、徳川慶喜の内大臣の辞官、領地返納、王政復古の朝令に対して、はむかう幕軍は、幹線道である東高野街道を進軍しすぐに敗退兵や負傷兵で戻ってきたが、村では危難を避けるため、妻子を山に避難させ、竹槍で防御態勢をとったり、負傷兵の救済にあたったりした。各寺には負傷兵が沢山ならんでいたという。星田村では、領主市橋家に対しておにぎり1000個などの陣中見舞いを近江西大路の陣屋まで届けようとしたが、戦のものすごさに結果的に薩長方に渡ってしまったということである。この墓は、水田の持ち主が長年お祀りしてきたもので、現在自動車販売会社の事務所となっているが、引き続き祀られている。

川尻の池(河童の池) 地図に記載のとおり、中川の下流の池であった。小字名の池田尾は、この池の灌漑する範囲内の土地であることを意味するのであろう。池の岸には葦が生い茂り、水面には、一面に菱や水藻が浮かんでいて、水は常に暗く淀んでいた。見るからに気味の悪そうな池であったとされる。徳川初期の古地図にはすでに描かれている古い池であった。昔から数匹の河太郎(河童)が住んでいて、村人が池堤を歩いていて足首をつかまれたという伝説が残っている。

星田牧の牛馬の市場
東高野街道に面して「市の西」という小字がある。星田の村落は、中川をはさんで、東側は水田中心に、西側は、傍示川が短い流域で、急激に高度を落とす地形や、禿山のため、絶えず氾濫を起こすため、牧場(星田牧)として使われてきた。水田が広がったのは、星田大池完成してからである。市の西の名の由来はこの牧場の牛馬の市場であるとされる。

鉢かづき姫の長者屋敷
お伽草子の鉢かづき姫にでてくる寝屋長者屋敷は、東西900メートル、南北300メートルの立派な屋敷に住んでいたが、東高野街道に接して金門と車司、寝屋川市との境界に近いところに掘の内と呼ばれる小字がある。金門(かなかど)は、長者屋敷の金箔の貼った豪華な門が東高野街道に面して立っていたという伝承があり、車司(くるもうじ)は、長者の乗る牛車を引く人や飼育する人が豪華の門の近くに住み、世話をしていたといはれる。なお堀の内には屋敷があった。

一里塚
東高野街道には、里程の目標と旅人に木陰を与え休憩するために,一里ごとに土を盛って松などを植え、一里塚とか一本松といった。この一里塚は、江戸時代に全国の諸街道に設けられた。星田の一里塚は、別掲の天保八年の星田村絵図では、道の両側の盛土の上に松が一本づつ植えられているが、ほかに大師堂が建っていたが、明治の中頃に軍
隊の演習か何かの都合で村の西入口に移されその後、防火の都合で何回か移転し、現在半尺口の大師堂として、大谷北、大谷南の大師堂と同様町内で祀られている。

六路の地蔵
現在のJR星田駅は、六路(小字名)にあり、関西鉄道(JRの前身。)開通以前は、星田村にとっては、六路は、東高野街道を通じての玄関であり、外敵から村を守り、また旅立ちの安全を守る重用な地点でもある。現在の星田駅の南東の方向の可所川(地蔵さんの川といった。)に阿弥陀さんと地蔵さんの双体仏があるが、東高野街道沿いにも昔からある。

星田駅から東へ向う東高野街道は、古い駅舎のときは、泉州銀行の東側に沿って鉄道を横切り、斜めに向かい、東高野街道に直線につながっていたが、高架の新駅舎になってからは、少し線路に沿って進み高田に向かう道と合流してから、高架を直角にくぐり従来の東高野街道に結ぶ方法をとっている

星田駅から東高野街道を東に向かう。

ほろ山(交野山)自噴水
東高野街道からは少しはなれているが、南の大谷の大師祠で合流する山根街道を石器時代の遺跡である布懸遺跡の方へ東行すると大阪道、妙見道の表示のある道標がある。この南側にある比較的南北に長い小山をほろ山(交野山)といい、その近くに少量の湧水がでており、この湧水を地元の人々は、このようにいう。

大谷南のお大師さん
強地といって星田と打上の境になる場所で現在星田方面からは、関連農家以外はあまり立ちよらないが、打上からのルートは、星田ゴルフの入口の前の坂を50m位北方向にに下だったところにあるコンクリートの溝風の川に沿った道
を100m程行くと鎮座している。石祠の裏に「大谷中」とかいてある。この大師さんの東から来る道が山の辺の道(山根街道)でありここで合流して打上へ向う。

交野で最初の郵便局開業
明治9年星田郵便局が東高野街道沿いの屋敷の門長屋で開業し、郵便取扱業務を開始した。交野郵便局の開設は、明治41年

地蔵堂
地蔵堂につられた半鐘と愛宕灯籠が並んでいていかにも古い雰囲気をかもしだしている。
地蔵堂は、最近公開してないが立派な厨子に地蔵尊を祀り、釈迦涅槃図が掛けられている。
半鐘に「河州交野郡大谷村地蔵堂什物 弘化3年丙申5月吉日  先祖代々に続き38軒の屋号が刻まれている。愛宕灯籠には、延宝8年(1680年)と刻まれていて、長年火の用心をよびかけてきた。

大谷北のお大師さん
星田には町内で大師講をつくり管理している大師堂が15あり、各人が祀っているのを加えると28ぐらいあるとされている。このうち大谷には、大谷北(しもんちょ)と大谷南(かみんちょ)に大師堂があり双方とも石祠でかこまれていて、昔は、ほとんどの人が分かれて大師講に加入し、4月21日には1日中お祀りをしていた。北の大師堂の石祠の右側に寛政2年(1790年)と刻まれている。

大井川関の標識
星田駅から西へ行くと傍示川にかかる橋の手前に、大井川万吉とすぐ(真っすぐの意。)京、八はた(八幡のこと。)道、台石に門弟中と刻まれている。
安政3年(1856年)と刻まれている。大谷出身の河内相撲から江戸相撲に出世した人の道標を兼ねた碑である。

星田駅から東高野街道を西に向かう
星田の東高野街道を歩く

東高野街道は、弘仁天皇が14年(823年)京都の東寺を空海に下賜され、真言宗の根本道場となったが、ここと高野山を結ぶ道として、大師信仰の高まりなどによって、往来が高まって、徒歩交通の幹線道路となった道である。江戸から明治にかけては、唯一の県道(堺県),府道であり、大阪府では、国道29号線,能勢街道とともに、3本の1等縦貫線の1つにあげていた幹線である。しかし明治31年の関西鉄道(JRの前身)や、昭和7年の泉佐野交野枚方線の開通とその後の自動車交通の発達によって徐々にさびれ、関西鉄道開通以前は、旅籠や物品販売など農業以外の仕事が寄与し栄えたともされるこの徒歩交通時代の幹線道は、星田では、交通路といえるのは、星田駅の南側から大谷地区内までで、しかもこの区間もほとんどが事実上一方通行の抜け道の役割しか果たしておらず、あとは農道あるいは畦道と区別がつかない状態で使われている。山の根の道や東高野街道など古い街道沿いの道は、面する住宅や構造物あるいは田、畑などの境界線が曲りくねっていることが特色であり、見ただけで最近の建築関係に準拠してたてられた住宅街とはなんとなく雰囲気がちがっており、その歴史的経過がわかりやすい。
東高野街道の現状は、星田駅から東は、やや幅広の農道(車1台がやっと通れる程度)風の舗装道路で、農地の中を臨港製鉄の方に向かい、星田共同墓地まで通じているが、臨港製鉄の建設で、その敷地内になっている。星田駅から東は、大谷橋から星田駅に向う一方通行の道があるが、さらにその北側に大谷地区に向う車1台幅の道があり、この道は、星田駅から大谷地区の中を通ってまさに街道沿いの雰囲気が残っている道であり、一旦泉佐野交野枚方線に合流して進む。後横切る形で再度農耕地帯を通って、星田ゴルフ場の北側にある,大谷南のお大師さんのところで東からきた山の根の道と合流し、打上に向う。、