明治初期の絵地図で歩く星田の里山と府民の森星田園地

付録 2500分の1の星田の地図をGPSで歩く
明治の地図の示す山道ルートに従って、ポケットGPSで記録し、山の形がほぼ立体的に見られる縮尺2500分の1の地図(大阪府都市計画課版)でナビゲートしている

府民の森星田園地・哮が峰・鮎返しの滝

府民の森星田園地はもともと小字名で大谷、南谷と呼ばれていた地区の上につくられた。。大谷とは磐船神社付近の府民の森の管理道に沿った谷筋のことで、白龍の滝がある府民の森の入口の先で天野川に流入している。南谷とは、ピトンの小屋周辺の管理道に沿って流れている谷筋で、これもピトンの小屋の東側で天野川に流入している。小字の大谷地区と南谷両地区の境界は、おおむね磐船神社からやまびこ広場まで続いている管理道の東側に連続している山の尾根筋が分水嶺となっているのでそのあたりが境界であり、管理道の南側が大谷であり、管理道の北側が南谷である。なお、この場合、大谷の北側に南谷があるが、南谷は

星田の南側にある谷、あるいは私市の南で天野川に流入している谷という意味の固有名称である。便宜上、府民の森星田園地を水系が異なる旧小字の大谷地区と南谷地区に分ける。ここでは、府民の森内の地名や谷の名称を各地の歴史性を尊重する意味から、明治の地図に記載がある部分は、すべて地図に転写し、そのまま採用し、それに従って記述することにする。

 

府民の森星田園地はもともと小字名で大谷、南谷と呼ばれていた2地区の上につくられた。。大谷とは磐船神社付近の府民の森の管理道に沿った谷筋のことで、白龍の滝がある府民の森の入口の先で天野川に流入している。南谷とは、ピトンの小屋周辺の管理道に沿って流れている谷筋で、これもピトンの小屋の東側で天野川に流入している。小字の大谷地区と南谷両地区の境界は、おおむね磐船神社からやまびこ広場まで続いている管理道の東側に連続している山の尾根筋が分水嶺となっているのでそのあたりが境界であり、管理道の南側が大谷であり、管理道の北側が南谷である。なお、この場合、大谷の北側に南谷があるが、南谷は,星田の南側にある谷、あるいは私市の南で天野川に流入している谷という意味の固有名称である。便宜上、府民の森星田園地を水系が異なる旧小字の大谷地区と南谷地区に分ける。
ここでは、府民の森内の地名や谷の名称を各地の歴史性を尊重する意味から、明治の地図に記載がある部分は、すべてGPS地図に転写し、そのまま採用し、それに従って記述することにする。

 

 

 

 

磐船神社からやまびこ広場に向かう管理道
左側の谷が大谷、右側の山は、暗りの山でこの尾根筋が分水嶺となっていて、大谷、南谷の水系に分かれている

 

 

 

 

 

 

大谷地区

せせらぎの道
中ノ谷に沿った谷沿い道である。終盤中ノ谷から別れ、飯森霊園出口につながり、
また、まつかぜの道とも連結している。
明治の地図には小屋口、奥小屋口と記載されており、このあたりは、石切場の作業場であった。ルートの入口(下図左)と中程に次のような象徴的な工作物が。現在でもある

 

じょうりょくの道 こもれびの道
両道とも尾根筋やその傍に道を作って尾根歩きで比較的歩きやすい道であるが、じょうりょくの道は、最近の水害で一部崩壊箇所があり、通行禁止になって
いる。両道とも番田谷とまつかぜの道を結んでいる。

 

 

 

 

 

 

まつかぜの道
やまびこ広場から飯森霊園出入口を結び、大谷地区の北部から西部に連なる、四條畷市や旧近隣の小字との境界の尾根筋に近いところを結んでいる比較的平坦で、長い道
である。高低差の近いところを這うように迂回しながら道がつくられているため、距離が長くなっているが、山道というより散歩道に近い平坦な道である。

 

踏割石
大きない石が付近にごろごろしている

まつかぜの道は、やまびこ広場から直接でているが、管理道を少し南にくだったところ、目谷のところにある八つ橋からも入れる。

 

 

 

 

 

 

 

 

大岩
昔はこの岩に沿った谷沿い道を少し登り、交差する尾根道を越して小松谷川の谷沿い道を下れば廃小松寺の南の大門があった

 

 

 

 

 

 

南谷地区

星のブランコから南谷の谷筋を望む。つつじの道、さえずりの道,おねすじの道、ぼうけんの道、らくようの道など南谷地区の道は、すべて管理道から南谷、ピトンの小屋に向かう比較的短い下り(南谷側からは登り。)の道である。右図は、展望台からみた南谷地区の全貌である。哮ガ峰や日南、穴虫,菖蒲が谷の隣接する旧小字との境界尾根が連続していて、大谷ハイキングコースといはれていた。小判の嶺は、菖蒲の滝、妙見川、星田妙見、JR星田駅に向かう園地の出入口があるところである。

歯朶谷とさえずりの道

 

おねすじの道と小判が谷

 

若林地区
ピトンの小屋の背後の山である。星田の山は禿山が多く、明治の地図でも樹木林が少ないが,星田妙見とこの若林地区だけが樹木山で描かれる。星田妙見は、縄文の森ともいはれ、当然であるが、若林という地名植林は明治中期以降で何があったのか

 

 

 

 

 

 

 

 

哮が峰と巖(岩)内道)

 

哮が峰
星のブランコ
の北側の橋桁がある山

先代旧事本記 
序文に聖徳太子と蘇我馬子の勅撰と書かれていて古事記(712年)日本書紀(720年)と並ぶ歴史書として尊重されていたが、内容的に後世のことを含んでいて江戸期に偽物とされたことがあるが序文の成立経過は問題があるが資料性は全く否定するものではない。内容的に成立は平安初期とされ、その時期に各年代の資料を集めてつくられたもので、また記紀や当時の文献にはない独自の伝承や神名など新しい資料性のあるものがでてきたり、物部氏の祖先である
饒速日尊に関する記述が多く見られるが、これらは現存しない物部氏の伝承や文献から引用されたものではないかと思われる。、記紀は天皇家の氏族伝承が中心であり。成立時の実力者である藤原氏が他の氏族を圧迫して仕上げられた経緯もあり。先代旧事本記は、物部氏が一族の存在、天皇との関係、功績などで立場を顕揚しようとして策定されたものではないかともされている。この場合の作者は当時物部氏系で最も活躍していた興原敏久(明法博士)が挙げられている。(安本美典氏)

巖(岩)内道
哮が峰の南側に山肌に吸い付くようにそびえていた巨大な岩山である。底部が洞窟になっていて、その洞窟が東の岩山から岩山の西のはずれまで続いていて通り抜けができた。大正末期に村が石材会社に売却し、石垣用石材に切り出され、地図に石切場と記載されていたが、その跡は現在のクライミングウオールとなっている。

饒速日命(にぎはやひのみこと)が高天原の祖母にあたる天照大神
の命を受け、神器をもって巌のような頑丈な舟に乗って
哮ガ峰に降臨したという。

哮ガ峰とクライミングウオール(現在)

 

 

 

 

 

 

鮎返し滝
磐船神社の新トンネルの下流の天野川がかたかなのコの字形に流れを変えるところにある滝である。7mの一枚岩を流れ落ちる滝であり、さすがの鮎も引き返すことからの名である。昔雨乞いのため、獅子窟寺の賓頭盧仏(びんづるさん)の顔に白粉を塗って滝のうえから釣り下げていのるという奇習があった。

 

 

鮎返しの滝の近くの樹間から見上げて見える哮が峰

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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