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には明治の末期から、ぼって川に造られた星田新池よりも少し遅れる形で大谷新池が深谷を堰止めて造られ、大正の始めに完成したので大正池とも呼ばれた。以上の日高山以西の地形を見ると星田の山の南斜面からの山水は、ぼって谷が西の極限で、現在の傍示川は人工的に西周りで造られたものであるとすると、ぼって川より以西の山水、日高山系統の山水は、湧水、漏れ水程度しか下流に流れないので、星田の干田(乾田)や星田牧はこのあたりからきたことが考えられる。
星田牧と奈良興福寺別院円成院領の荘園
傍示川の名の由来は、平安時代の末期に、星田牧では飼育していた牛馬が病気で大量に死んだ。その頃、淀川の大洪水があり、淀川の向こうの三島郡上牧の為禰牧(いねのまき)の牛馬を移して飼育することになった。星田牧は、この為禰牧の傘下の福牧に所属していたが、税の取立てが厳しく、属地扱いされるので、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園として庇護を受けることとなった。 傍示川は、この荘園の境界である。当時星田は、一方で八幡八幡宮での荘園にもなっていたので、この傍示川は、現在の西周りの傍示川はなく、古代の傍示川で、従って・奈良興福寺別院円成院領の境界は、高岡山の東側からぼって川地獄谷川を結ぶラインで、八幡八幡宮の荘園がその以西あるいは中川以西の屯倉(私部ーきさいべ)とすると領土区分が理解しやすい。
綿花栽培、綿糸づくり、星田縞
また星田牧とは別に星田は綿花栽培、綿糸作り、星田縞をはじめ綿織なども交野で突出しており、交野市史では交野で一番綿花づくりが盛んなのは星田村であり、機織りも盛んで,次いで多かったのは郡津で田の等級も綿で決められたとしているが、星田村では市橋藩、八幡八幡宮と大久保藩の3藩による。綿花は星田村に出荷して機に織られたとしていて、また、明治の中頃の片町線以北は一面綿花で美しかったとか、あるいは納屋を改造して幾台もの機械を据え付け、製品は各方面に出荷が盛んであったとか、むしろこれを主業とした農家もあり、大変成功した例も数多かったとか。当時の社会情勢に応じて最も商品価値のあるものを栽培することは当然のことであるが、灌漑能力等その土地の実情に合った作物を選ばなければならないのも当然である。そして明治も後半を迎え,、都市には紡績工場の活動が始まると、もはや手工業経営の採算が難しく、この段階はすでに通りすぎた感がある。従って、綿花栽培は,次第に蔭をひそめ、明治末期には全く水田耕作に逆戻りした。明治末期に星田新池また、次いで大正に入って、大谷新池の築造が完成したが、当時の国鉄の星田駅周辺に残っていた綿花畑も大谷新池の完成によって消滅したという伝承が残っている。


左の地図は明治41年の地図を原図として等高線が山頂など高いところに対しU字型になっているところを登りの尾根筋とし、反対に逆U字あるいは逆V字になっているところを川谷筋として主なものを描いたものである。
地獄谷川は小松山の北斜面の雨水を受けている川であり、ぼって川は星田山(頂上馬が峰)をはさんで東西を流れているぼって谷となすび石の谷が合流した川である。この川は、明治末期に、両谷の合流地点に星田新池が造られたため、現在の地形でいえば、星田新池からの放水路であるぼって川にあたる。両川の間は小字名を地獄谷といってそこは長い尾根筋になっていて地獄谷尾根筋と命名できる。妙見川は,小松山の東側を源流にもつ川である。これらの川は大抵の場合その川筋の間に尾根筋を挟んでいるが、その場合、山頂から麓と縦の放射状の尾根の場合が多い。星田山の西側は日高山を頂上として東は、ぼって川の左岸(現在の地形で云えば星田新池堤防の北西寄り)から発し、峠付近の逢坂に通ずる道で逢坂道と呼ばれた尾根道と西側は下りで麓は打上村に通ずる尾根道であるが、この山は麓に近いところで地図で赤書きしているが、鉢巻をしたような横巻きの尾根筋が久保池に流れ込んでいる西谷の北側を沿う形で走っていて、この尾根筋が山の上部下部を2分し一種の分水嶺の働きをしている。この尾根筋の上部は雨水は逢坂道の東側はぼって川に西側は西谷から久保池、最後は打上川に流れている。またこの鉢巻尾根の下側は短い源流の伏流水、湧水中心の鬢皿谷、阿曽谷、深谷,長谷などの短い谷が横に広がっている。このうち、深谷

道頂上流れている逢坂

西星田の地形と星田牧、綿花栽培、大谷新池