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裏山を歩く会へのお誘い

裏山を歩く会では星田の裏山を起点に毎月第1週(すべて月曜日)は、府民の森くろんど園地八橋方面、第2週は、交野山から枚方市津田方面、第3週は府民の森ほしだ園地のピトンの小屋方面、第4週は、府民の森むろいけ園地から飯盛山、野崎方面と生駒山系を歩いています。これはルートの名所・旧跡など見どころを集めました。

国見山・白旗池

国見山へは自然環状歩道では、JR津田駅から地蔵池を越して川沿いに第2京阪道路をくぐって津田サイエンスヒルズの南側に沿った道を登っていく。大阪府警察学校の南(清水谷)からは、尾根道が通じている。

国見山(津田山)

枚方八景 5国見山の展望500年ほど前の戦国時代、津田周防守正信(楠木氏の末流で1万石ほどの領主)がここに津田城を築城したとされる。
さて”いばり石”は?
頂上にあるとされているが現在大きな穴があいているという条件にあてはまる石はない。その後の風化作用で岩が砕けたりしてなくなったのか、この岩については写真など見たこともない。かるたの絵面は、太鼓を持った雷神がかかれており参考にならない。どなたかこのいばり石についての情報があればご教授願いたい。

弁慶岩
場所は、頂上にあがる手前に左に入る道がありそこを進めば大きな岩が沢山あるがその1番手前の大きい岩。
左の写真は弁慶が草履でけったので岩が崩れた跡。
右は3人のって岩の大きさをしめしたもの。交野市史でも同じように1人が乗った写真を載せている。
とがり岩
場所は丁度竜王社のある竜王石の背後にあたり、社を拝むと丁度この雨乞い石を拝む形になる。雨乞いのときはこの石の周りを列をなして踊ったという。

竜王山の3つの石
竜王山には伝承で伝わっている著名な石が3つある。
1つは”とがり石”あるいは”雨乞い石”とも呼ばれる。2つ目は交野郷土史かるたでも取り上げられている ” 雷神がしょんべんかけたいばり石”で、。雷神がしょんべんをかけたため大きな穴があいたとされている石”とがり石”である。3つ目は”弁慶岩”で岩の西側のくぼみが弁慶がけった足跡であるとされている。
続きの 室池園地、飯盛山」、野崎観音編を見る 

裏山を歩く会について

毎週月曜日に星田山手4丁目と5丁目の間の長い石段の上がったところに集合し、原則として毎月第1週は府民の森くろんど園地八橋方面、第2週は、府民の森ほしだ園地を経て枚方市津田方面、第3週は府民の森ほしだ園地のピトンの小屋方面、第4週は、府民の森むろいけ園地から飯盛山・野崎方面を原則としている。

ルートは、集合地から津田、府民の森くろんど園地、ほしだ園地などの東、南方面は星田新池から星田の里山の一蓋被、北山師岳を経て府民の森ほしだ園地のまつかぜの道から同園地を抜けるルート、府民の森むろいけ園地や飯盛山、野崎観音など西方面は、逢坂道(古名)を通って日高山付近から四条畷市逢坂を経由するなど全て裏山を出発点にしている。

参加資格  山歩き愛好者であれば特になし。

希望者には、来週のコース、雨天による中止などメール発信をしている。(現在47名) 

  連絡先   Eメール: i-hashimoto@ric.hi-ho.ne.jp

裏山を歩く会の過去の記録

 活動開始  平成 19  年 1  月  

 活動回数   163   回    

 最近の平均参加人員 20人程度 

生駒山系を歩く
津田から野崎観音までの
 

頂上の竜王石と竜王社
かいがけ道から竜王山への登山入口
鳥居が建っている

観音岩の大きさ
 高さ(最高の厚み幅)  13m            広さ   約26畳
本尊は国宝の薬師如来像である。 
お寺は徳川軍との決戦を控えて豊臣軍から加勢を要請されたが,落城必至とみた法師は、これを断ったので全山十二坊に火をつけ焼失した。その後再建されたがその規模は10分の1にも満たないとされている。 
寺名にもなった獅子屈岩。弘法大師がよく修業されていた場所で星田の八町3所の降星伝説(弘法大師が修業によってある法を修められ、その秘法をとなえると丁度8丁の間隔で3角形の星田妙見,光林寺、星の森に8つの星が降った。)の秘法はここでとなえられた。
八丈岩 八畳岩とも書くがとても八畳では納まらない
 鏡岩
寺域で一番大きな岩である。
袈裟掛け岩 
 弘法大師が袈裟を掛けた岩である。 

竜岩窟内の仏さま
昔はこの洞窟にこうもりがすんでいたという。 

月ノ輪の滝
交野八景 尺冶の翆影
尺冶川は くろんど園地のすいれん池の近くをながれていてゆるやかな渓谷をつくっていて流れている。麓に近いところに月ノ輪の滝がある。この滝は古くは、金剛の滝と呼ばれていて、獅子屈寺の寺域に含まれていたといわれる。
 
かいがけ地蔵を少し登ったところの道の左に大きい石に彫られた地蔵 
昔地蔵堂が立っていた。数体の石仏が取り巻いている
かいがけ地蔵(左)とごみの木地蔵(右)
無名の仏
キトラの双体仏
天正地蔵
(1576年
スマイル地蔵(1561年)
天満宮 鳥居をくぐらずに左側の坂を登っていくと丁度鳥居の向こうの小山の上に祠がある
阿弥陀三尊磨崖石仏(室町中期) 
 阿弥陀三尊磨崖石仏(室町中期)
阿弥陀如来立像石仏(室町時代)
二尊石仏(製作年代不明 
弥勒仏座像石仏(鎌倉時代)
星田新池   聖滝(なすび石の滝)  ぼって滝

一蓋被 
 馬が峰(星田山)  北山師岳
星田里山ルートの道
   
星田妙見拝殿  星降伝説の2つ落ちた石の内の1つ 
星田妙見・菖蒲の滝の道
     
 

星のブランコと哮が峰

星のブランコがかかる側の山が哮が峰で天照大神の命を受けた饒速日命が降臨し山の向こうの日南山に宮居を構えたとされる。(先代旧事本紀)

岩内道とクライミングウオール
哮が峰の山肌に吸いつくようにそびえていた岩山で底部が洞窟になっていて西から東に通り抜けていたが、大正末期に石材会社が取得し石切り場となりその跡にクライミングウオールがつくられた 

鮎返しの滝
ピトンの小屋かららくようの道をあるいていると遠くから滝の音がきけるのはこの滝である。高さ7mの一枚岩から落ちる滝でさすがのあゆも引き返すのでこのような名がついた 

府民の森ほしだ園地の古い名勝

新しい名勝としてピトンの小屋周辺の星のブランコとクライミングウオールがあるがその昔の古い名勝として次のものがあった。
自然歩道は、きさいちCCのクラブハウスからの道を通って、天野川を渡って府民の森ほしだ園地に入って園地の南東の一角にある「じょうりょくの道」を通って飯盛山霊園に抜け、四条畷市の戎公園から山道に戻り、堂尾池ハイキングコースを経て府民の森むろいけ園地につづいている。
府民の森ほしだ園地を起点あるいは経由するルートは、次のルートがある。
星のブランコの近くの星田出入り口から,菖蒲の滝、星田妙見ルート
まつかぜの道から星田の里山を通り¥星田新池に抜けるルートがある。
府民の森ほしだ園地・星田の里山・星田妙見
府民の森ほしだ園地
尺冶川・月ノ輪ノ滝

獅子窟寺

交野八景 獅子窟寺の青嵐
巨大な岩めぐりと20数体の石仏が続く道である。
境内その周辺の巨石ではまず昔山門が建っていたとされる牛臥岩、女の岩とも呼ばれ弘法大師がよく修業されまたこの寺の寺名ともなった獅子屈岩、災いを転じて福となす天福岩、男岩またハイキングコースの中腹で、奥の院とも呼ばれている八丈岩、、袈裟かけ岩、寺内で最も大きな鏡岩、洞窟の竜岩窟と岩めぐりが楽しい

八つ橋とラクショウの群落
 

自然歩道はくろんど園地の主園路で園内を縦断してきさいちカウントリーゴルフ場内を通過している道路を通って府民の森星田園地内続く道である。
ほかのくろんど園地を起点あるいは、経過点とした道は
  こだちの道を通って獅子窟寺へ
  すいれん池から尺冶川沿いに下って月ノ輪の滝へ
  くろんど池ハイキングコースでくろんど池へ

府民の森くろんど園地

府民の森くろんど園地・獅子窟寺・月の輪の滝

竜王山

竜王山は、交野山、旗振山とともに交野3山の1つで、この山は交野山、旗振山が連山であるのに、この山は、少し北寄りで、3山は、やや3角形に配置されている。したがってこの山の一般登山口はかいがけ路の途中の鳥居が建っている登山口から登る。頂上に八大竜王を祀り、雨乞いの山でここにも昔は、八つの宿坊があったともいはれ、信仰の山でもあった。
       
 柳谷、愛宕山大権現、石清水八幡宮伏拝 二月堂伏拝   金刀比羅宮伏拝み  能勢妙見
伏拝

かいがけの路

交野八景かいがけの錦?

 古くから大和に通ずる古い道で、古代では、修験道の行場として、奈良期には、大仏建立のために宇佐の鋳造工がこの道を急いだとされ、また紀州熊野に詣でる熊野街道として、天正時代には,織田軍と戦った武将どもの馬駆けの道として、多くのものが往来したとされる。

かいがけの道の伏し拝み

 それぞれのの宮社がある方向に向かってたてられている。わざわざ参らなくても御利やくだけをいただきたいという昔の人の生活の知恵である。
傍示の野仏たち

八葉蓮華寺  本堂と快慶作とされる重要文化財の阿弥陀如来立像

傍示は、交野市側(西傍示)と生駒市側にもある(東傍示)。生駒市側にある西方寺というお寺(この寺の住職は、蓮華寺の住職を兼務している。)に「氷室山蓮華寺略史」があり、これによると「天長3年(826年)弘法大師が、竜王山雨乞いをしたところ降雨があり、時の淳和天皇がその効を誉め、八大竜王にちなんで八葉蓮華寺を建立された。その後この寺は、1211年に延暦寺との僧戦に敗れ廃絶した。しかし元亨元年(1321年)法明上人が寺院跡に1小堂を建て、旧名どおり、八葉蓮華寺と名付け、融通念仏集の道場にしたと書かれている。

傍示の里
傍示とは傍(ふだ)をたてて国境を示したことからきた名前であり、傍示は奈良県側にもあり(東傍示。)、星田の傍示川と同じく平安時代の石清水八幡宮の荘園の境界であるという。

旗振山は、交野山、龍王山,旗振山の交野3山で1番高い。昔大阪堂島の米取引情報を手旗で奈良方面に伝えたのでこのような名前がついた。頂上には3角点と関電の鉄柱が立っているだけで現在は何もない。ここから竜王山へは傍示よりにすこし行ったところから交野市の防災道路がでているのでその道を下って行くと竜王山の頂上から一こぶ位下がってきた尾根筋に出会うのでそれを登れば竜王山にゆける。

旗振山

旗振山、傍示の里,かいがけ路、竜王山

従来は開元寺が山岳宗教が盛んになった鎌倉期に山の上に移ったとされていたが、これについても当時山岳仏教寺院があったことは認められているが、それが岩倉開元寺という名称であったか疑問がもたれているが、ここでも開元寺と同じく岩倉開元の名称で話をすめている。

岩倉開元寺推定地
交野八景  交野山の来光
交野山の頂上観音岩から見た北、西、東側の眺望     南側の眺望。360度の眺望がきく。
観音岩と岩倉
交野山の頂上

この付近は何回も調査が行われ、数多くの石器、土器、炉跡なども発見されている。
縄文時代の住居跡遺跡。この遺跡から出土した特徴的な押型文土器は、神宮寺式土器と呼ばれ、近畿地方を中心に各地の遺跡で同様の土器が出土している。

交野山への登山道
神宮寺縄文住居跡遺跡

神宮寺先縄文時代遺跡の碑が建っている。ここから10000年前の石器が発見された。左は、握り槌(ハンドアックス)という万能の用途を持つ極めて原始的な石器であって、部分的に使いやすいように2次加工がされている。
右はナイフブレードで二上山出土のサヌカイト(讃岐石)刃の部分は1次加工のみの鋭利な刃で背の部分は2次加工がさえている。

神宮寺旧石器時代遺跡

奈良興福寺の記録から奈良期の天平時代に交野地方に開元寺というお寺があることが記録されていた。開元寺とは、おなじ時期(738年頃)に中国唐代の玄宗皇帝(年号開元)の勅命によって、中国各州郡に開元寺が造られていた。この場所でもお寺の礎石が発掘されるなど大きなお寺があったことが確認されており、また   族など力をもっていた渡来人が多かったこの地方にもその影響を及ぼしたものとしてこの大寺を開元寺であるとしてきた。しかし最近になって興福寺文書が最近の研究で江戸時代につくられたものではないかと疑問がもたれています。しかしこの地方に天平時代創建の大寺があったことは確かなようで、寺の名称が開元寺であったか疑問がもたれている。ここでは、明確になるまで、従来どうりの開元寺という名前を使っている。

天平時代開元寺推定地

石仏の道の5体の石仏

この道は、麓近くに、開元寺、鎌倉以降の山岳仏教が盛んになって頂上付近に岩倉開元寺ができて神の山として発達してきたとされる。途中5体の石仏があり、石仏の道といわれている。別名でご来光の道とも呼ばれている。
また、道沿いに天平時代開元寺推定地のほか神宮寺縄文時代住居跡、神宮寺先縄文時代遺跡の3本の碑が建っており、頂上近くに岩倉開元寺多宝塔跡と岩倉開元寺推定地の2本の碑が建っていて交野の古い歴史を感じさせる道である。
左の礎石は、歴史資料館の庭においてある開平寺の礎石である。

石仏の道

源氏の滝の道

自然歩道では、白旗池からイタドリの小路、オニヤンマの小路を経た道が決められているが、源氏の滝の道・石仏の道・郡南道路などが大阪側麓から通じている。

源氏の滝

交野八景 源氏の滝の清涼
機物神社から東方向の山に向かって歩いてゆくと白旗池を免除川に沿う道に入り、源氏の滝は、その川にかかる滝である。この滝の名称源氏は、開元寺からきているということである。

いきものセンターは地図の白旗池とその周辺の濃い緑色の部分がエリアであって、エリア内の道は、動植物昆虫の名のついた小路の名称がつけられている。珍しい動物、小鳥などがよくみかけられる場所や植物の群生場所を表示している。
また右のいきものセンターの建物内には、望遠鏡2機と動植物、昆虫などの模型、写真、標本などを展示している。

白旗池といきものふれあいセンター
清水谷古墳
倉冶、寺から津田にかけては、古来から渡来人が多く住んでいた。7世紀ころの渡来人のものと思われる小型の横穴式古墳が関電変電所、龍王山付近でまとまってでてくるが、清水谷の個人の畑から出た古墳の内部
夫婦石
自然歩道を歩いていると夫婦岩の碑があり右側の高い尾根筋にある。道から離れて尾根に登る。