北星田の地形と星田村元禄絵図が描く田畑との対比

星田村元禄絵図では田と畑とを区分して表示している。田は低湿地や灌漑用水などで水田耕作が可能地であろう。畑地は、高台など水源の確保が困難な土地であろう。元禄絵図から田、畑を写したものが左の地図である。現在の星田駅周辺は、標高で40mを超える高所にあるが、明治43年に星田新池が完成した頃は、星田駅周辺は水分が少なくてすむ綿花畑であったが大正の始めに大谷新池ができて水田になったといはれることから、駅周辺の水田は、大正期以後のことであろう。右側の地図は、明治12年測量の地図であるが鉄道線が記載されていることから、地図の印刷は、関西鉄道(JR片町線の前身。)の明治33年の開通以後にされたものであろう。

寝屋川市のシンボル施設・伝寝屋の長者屋敷(公園)とマスコット人形はちかづきちゃん
山根街道(星田から寝屋に通じている府道154号線ー私市太秦線と星田駅の間の星田池の西側から寝屋に通じている古道。)沿いの寝屋2丁目の旧小字で萩原のところにある寝屋川市が設置した伝・寝屋の長者屋敷(公園)の屋敷の想定図や由緒が書かれている掲示板とマスコット人形のはちかづきちゃん
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江戸時代の星田村の3人の領主とその領民と星田村元禄絵図が描く領域
江戸時代の星田は3人の領主が支配していたが、元禄星田村絵図では、大久保領と八幡領の2人の領主の領域を示しているが、全体の8割5分(石高換算)を保有する市橋家の領域は,広範におよんでいる。

星田の3人の領主と支配農家
  領主       石高     家数     人数           領域
市橋家(長勝)   1306    313     1524         岩清水八幡領、大久保家の領域以外。となると中川以東の奈良時代の条里制区画が行われた地域は全て市橋領になる。 
岩清水八幡領      120        9        57           2箇所に分かれており1つは、中川の西側の千原。北村付近、2つ目は星田駅近くの六路付近
大久保家         109       10        50           下平池を中心に上平池にかけての地域

計            1535      332       1631 

星田北線道路と北枚方街道

妙見口から千原を通って神出来(かんでら)で府道枚方富田林泉佐野線と交差し、茄子作から枚方に通ずる星田北線道路の前身は北枚方街道といって現学研都市線の前身の関西鉄道(その後合併して国鉄片町線)の開通は、明治31年で京阪電車は12年遅れて43年開通したが、当時枚方など沿線住民が星田駅に通ずる道として造られた。

星田北1号線道路にある太平洋戦争の遺跡 故中村中尉の鎮魂碑
昭和22年7月9日アメリカ機との空中戦で撃墜された鹿児島県出身の中尉の鎮魂碑
地形図
大正天皇の行幸記念碑とJR旧星田駅の待合所
大正3年交野が原での陸軍大演習のお立ち見のため
大正天皇が行幸された記念碑であり、六路の交差点の近くに建っている。この場所と上の山の2箇所で立ち見をされた。この行幸の際旧星田駅の待合室の座席の足が化粧足に取り替えられた。写真は、旧星田駅と待合室の足である。

発掘された六対の地蔵と並んで建っている道しるべ地蔵(左端)
偉い人の墓
戊辰戦争のきっかけとなった鳥羽伏見の戦い、星田村からも市橋の殿様の陣屋におにぎりをもって見舞いに行くなどいろいろあったようであるが、幕軍が劣勢になり、当時の東高野街道は負傷兵が引き上げ、星田の各寺は負傷兵であふれたという。その中で詳細は不詳であるが偉い人の墓として祀られている墓がある。当時の農地の所有者が祀っていたのを自動車の販売店がその土地に営業所を建てたがその一角で今も祀られている。
トヨタビスタの螺旋階段の下の偉い人の墓
星田墓地の道しるべ地蔵
星田の村人が墓に来る場合、中川沿いの道から東高野街道に出て左折してきた。
左折地点に道しるべ地蔵が建っていたが、
臨港製鉄(現剤の新関西製鉄)建設の際、墓の入口付近に移された。東高野街道は、星田の領域では、道の原型は残っているが,唯
一この製鉄所内は廃道遮断となっていて、府道がその迂回路になっている。
小なべ橋(墓の前橋)
星田墓地の入口近くにある東高野街道の橋、この街道が明治時代の広域交通路として華やかなりし頃、唯一の府道施設として石橋であった。当時天野川に架かっていた私市道と私部道の2つの橋は、いずれも里道として木製の橋であった
川尻の池と池田尾
星田村元禄地図に記載の池1反の池は河尻の池である。池の岸には葦が生い茂り、水面に菱や水藻が浮かんでいて、水は常に淀んでいて,気味の悪そうな池であった。数匹の河太郎(河童)が住んでいて、村人が池堤を歩いていて、足首をつかまえられたという伝説がある。現在新関西製鉄の西北から交通慰霊碑が建っている付近にあった

この池の灌漑用水の供給範囲が池田尾である、
小奈邉と可所
小奈邉と河邉の地名の由来は地形からきたものらしい。小奈邉は、鍋を伏せたような形で周辺より少し高くなっていて写真では、森林で写っていて、左の端の森は墓地である。。現在の府道府道泉佐野泉大津枚方線をはさんで両方の地域で、古くから星田墓地があり、新関西製鉄を始め最近ではいろんな企業がはりついている。手前の低い緑地(休閑期間中の水田)の部分は,可所で,東高野街道に平行な形で帯状」の低地帯を形成しており、語源は、河床であろうとされている。

星田北1 号線道路と国鉄の引き込み線

星田駅の北側から星田香里道路、東高野街道を横切り円形カーブ形に星田1号線に連なっている道には、第2太平洋戦争中に枚方市香里にあった陸軍砲兵工廠と結ぶ鉄道の引き込み線があったが、火薬庫の火災によって廃線になった

尾道(仁徳天皇時代の屯倉)
4世紀末から5世紀はじめにかけての仁徳天皇は、茨田の屯倉を作ったとされる(日本書紀)。吉田東伍(1864〜1918)の大日本地名辞書に三宅山は、星田村にあり、「茨田三宅の遺構なるべし」、とあり当時茨田郡の中に交野郡が含まれていたため、星田にあったとすると、尾道は、大蔵ともいい、この地が候補地にあげられている。交野屯倉は、6世紀の敏達天皇の頃、蘇我と物部の対立時代に後の推古天皇(女帝)が皇后時代に交野一帯の土地1488町歩の土地を皇后に寄贈していわゆる私部(きさいべ)とよばれた土地は、皇后から天皇になったため屯倉とよばれたが、それ以前の仁徳時代にヤマト政権の拡充は屯倉を広めて地方支配を進めていったとされているが別の屯倉であろう。
右の写真の建物の手前付近から第2京阪と星田北線の交差点から京阪バス車庫に至る手前付近が尾道である。
尾道は、今回第二京阪道路建設で平池遺跡が発掘され、古墳時代の遺構が見つかっているがその数百メートル南よりの東である。

神出来
神出来地区は,星田北線道路など農地はほとんど残っていない。地名の語源は,干田(かんでん)で少し高い丘陵になっていたのであろう。
四馬塚
一里塚は東高野道北側にあるが」高野道の南側一帯が四馬塚である。昔は村人にとっては、手前の里道で西村、先で乾村と南北の結び付きの方が東西の結び付きよりも強かったのである。右の写真は現在も残されているJR高架下の自転車置き場の中に残されている里道跡
四馬塚、神出来(かんでら
四馬塚の地名の由来は,芝塚で、一里塚である。この一里塚には立派な松ノ木が植わっていて、その下にお大師さんが祀られていた。星田には現在でも15体位のお大師さんが地域の人々によって祀られているが、星田小学校の近くの半尺口のお大師さんは、この松ノ木を処分したお金で新しいものを作って祀られた。四馬塚は星田の旧村落の西村(星田の村落は、東村、西村、北村、乾(戌亥)村、坤(ひつじさる)村、艮(うしとら)村と方位の名前がついていた。)に直結し、その東にある神出来(かんでら。地名の由来は、小高くて干(かん)田がなまったもの。)は乾村の千原に直結していたが、明治31年の関西鐵道(JRの前身)の開通によって、東高野街道の地位が低下し、星田駅からは、六路が中心になり、昭和7年の府道枚方富田林泉佐野線の開通とその後の自動車交通の増加によって昭和39年12月に交野で初めて六路の交差点に信号が灯った。
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金門(かなかど)
東高野街道に接して金箔を貼ったような立派な長者屋敷の門があったところである。一里塚


条里田奈良時代
星田の村は中川を挟んで東側は奈良時代の大化の改新の班田収受の際藤が尾の私市道(旧山の根の道)あたりを1条通として、枚方の禁野のあたりを10条通として条里制区画が行われるなど天野川流域の優良な米作地帯地帯であった
上平池
江戸元禄期(1638年〜)の資料から平池の地名がでてくるが、地形図、土地台帳の図面などには池がなく、側田あたりから小川が流れていて、池ではなく用水路を使って開けた水田地帯である。ただし松会堂蔵板写本『寝屋長者鉢かづき』は、万治元年(1658年)頃には屋敷の形は残っていたという。)
側田
は星田駅を含む小字で、関西鉄道の前は東高野街道が走っているのみで高台になっていた。地名の由来は川田で、川を引いて田圃にしたことであるとされている。明治末期に星田新池ができたが、駅周辺は水のいらない綿花畑であったが、大正始めに大谷新池ができて駅周辺に水田が広がったという話がある。

車司(くるもうじ)
東高野街道に面した立派な長者屋敷の東門に接して東側で、長者の乗る牛車を引く人々やその牛を飼育する人が住んでいたところである。またくるもうじはくるまうし(車牛)がなまったものであるということもできる。
大字寝屋の堀ノ内と大字星田の堀之内
両ほりのうちは字が1字異なるが隣接していて堀に囲まれた1戸の立派な城郭であったのであろう。
下の写真は右側の広い田圃が星田の掘之内の範囲で、星田の場合北側は枚方市の茄子作まで続いているが,寝屋川の場合、途中から中尾にかわる。両ホリノウチの間は谷筋になっており,星田駅近くの星田池に通じている。

北星田の地史
星田牧の牛馬の市場
短い流域で、高低差が大きく、星田の山の山水を山裾を這うように集める構造になっている傍示川(上流地獄谷川)は、度々氾濫を起こし、降雨後以外は、水量が乏しく、河川管理上困難な問題を抱えていたためその流域は、星田牧として牧場に使われてきた。市の西という地名の市は、この星田牧の牛馬の市場であるとされている。
平安時代の末期に、飼育していた牛馬が病気で大量に死んだが、その頃淀川の大洪水があり、淀川の向こうの三島郡上牧の為野(いねの)
牧の傘下の福牧に属していたが、税の取立てが厳しく、属地扱いされるため、奈良興福寺別院円生成院領として寄進しその荘園として庇護を受けることになった。しかしその後ろ盾になっていた鳥羽法王の崩御など為野牧は機会あるごとに所領の復活を求めてきて争いが絶えなかったがその都度これをこなしてきた経緯がある。
傍示川の名の由来は、傍示とは目印のことで普通は、杭、石、札などが建てられたが、この荘園の境界の目印に川を使ったのでこのような名がついた。
右の写真 牛馬市場は現在新関西製鉄(旧臨港製鉄)の一部になっている。
上の写真は寝屋川市側を南方向のやや東よりに写した写真であり、下の写真は交野市側を西南の方向から広角に連続写真でとって繋げたものである。寝屋川市側は左に水道局のタンクが並んでいるがその東側にかくれているが伝・寝屋の長者屋敷の公園があり、その更に西側のたち川(傍示川の下流)から続いていたとされる。両写真ともタンクが1基
写っていて寝屋川市交野市境界の表示をしているが、タンクの設置場所は大字寝屋の堀ノ内でその西側は大字星田の堀之内である。交野市側の写真では車司の表示がある高いマンションは星田北線道路沿いに建っていて、その付近までの小字名を車司といった。また、金門は長者屋敷の豪華な金の門がその語源の由来とされているが、東高野街道沿いに立っていたのであろう

鉢かづき姫の長者屋敷
鉢かづき姫の物語は室町から江戸時代につくられたお伽草子に記載された物語であるが、寝屋川市にはこの原本の一つdehanaika
ともいえる「河内国交野郡寝屋長者鉢記」(寝屋川市役所蔵本)があり、これは1巻から7巻の7冊に及ぶ長編である、ここに記載の寝屋の長者(備中守藤原実高)屋敷は、東西12町(1300m)、南北4町(440m)の広さがあり,幾百坪の建物や10数坪の土蔵が並び近畿でも長者の頭と呼ばれていて、これは寝屋川市の萩原、垣内、と連続する交野市側の「堀之内」は屋敷の一部、「金門」に東の大門があり「車司」は、長者屋敷の牛車引きや牛馬の飼育人の住まいが由来の地名であるとされていて、長者屋敷の規模は、寝屋川市、交野市をまたぐ大規模なものであった。1659年(万治2年)松会堂蔵板写本『寝屋長者鉢かづき』は、備中守藤原実高は1279年(弘安2年)頃の人で、万治元年頃には屋敷の形は残っていたという






















JR学研都市線の北側の北星田地区は、近年の自動車交通発達以前の徒歩交通時代には、当時の地域幹線交通路であった東高野街道、現在の寝屋川市寝屋に通ずる山根街道など、長らく農道や里道を中心とした農業地帯であったが、明治32年の関西鉄道(現在のJR学研都市線)の開通、昭和7年の府道泉佐野泉大津枚方線の開通、昭和35年頃の臨港製鉄(現在の新関西製鉄)の創業にはじまり,企業団地を中心に府道周辺や東側の地域の一部で開発が進んだが星田北5丁目の一部や6〜9丁目では農業地帯が残っている。しかし最近の星田北線(神出来の交差点から茄子作に通じる道)、第2京阪道路、星田北4号線(水道道路)などの整備が進み、これらの地域が急激に変わりつつあるので、変貌前の記録を兼ねて本資料を整備をした。
北星田地域は、東西を分ける形で中川が流れている、中川の東の地域は、奈良時代の大化の改新の頃、条里制区画が行われるなど天野川流域の米作優良地帯でありり、さらに時代を逆上れば防龍、森ノ木、中水道などで弥生遺跡が発掘されている。
中川以西の地域は,地形の上から広範な星田の山の水を大量に受けている傍示川が流れていて、度々氾濫を起こし、星田の語源は干し田ともいって河川管理が難しく平安時代後期からの時期には牧場に使われた経緯がある。
星田から枚方市禁野あたりまでを交野が原といってその北端に位置するが恒武天皇は既存の豪族や寺院の勢力の影響を避けて平城京から長岡京に遷都したがその時北天(北極星)を祀って、交野が原で度々遊猟されたが続日本紀、日本後紀の記録では12回に及びまたその後も平安貴族達の遊猟の場としてかがやかしい時代を経てきたところでもある。

北星田地史の目次と総覧地図(小字名入り地図)
1 鉢かづき姫の長者屋敷(大字寝屋地区、伝・寝屋の長者屋敷(公園)、堀ノ内、平池、金門、車司。平安期〜
2 四馬塚(東高野街道一里塚、半尺口の大師堂、星田北1号線道路と国鉄の引き込み線,故中村中尉の鎮魂碑
3 神出来
4 星田北線道路と北枚方街道
5 偉い人の墓
6 星田牧の牛馬の市場(市の西。平安時代)
7 尾道(仁徳天皇時代の屯倉)(古墳時代)                     
8 大正天皇の行幸記念碑とJR旧星田駅の待合所
9 小奈邉と可所小奈邉。星田墓地の道しるべ地蔵、小なべ橋(墓の前橋)
10 川尻の池と池田尾
11 条里田(中川の東側の地区。奈良期〜)
12  星田の3領主とその領