古い道

古いまち星田では、徒歩交通時代に作られた山根街道や東高野街道の広域交通路がそのままの形で残っており、また南北朝時代や戦国時代など、たび重なる主戦場であった河内地方独特の細街路や迷路などの城や要塞のようなまちづくりの道がそのまま残っています。懐古ブームの現在、自動車交通以前の古い道について取り上げています。

六路の辻

テキスト ボックス: 大正天皇行幸記念碑


星田駅を東に行くと府道枚方富田林泉佐野線との交点は、枚方高田線、西の村の道が五差路をつくっている。ここを六路の辻という。山根街道や東高野街道にも通ずる交通の要衝である。六路の辻とは、文字どおり、多くの道が集まる分岐点のことをいっているが、同時に六道の辻である。六道とは、平安中期以降民衆に広まった地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人、天の六つの苦難の世界を仏菩薩を念ずることで救われるという考え方で、ここは村の玄関口であり、旅立ちの出発点でもあるので、辻に地蔵をまつって悪霊の立ち入りを防いだり、旅の安全を祈願したりしたところであろう。

六路の地蔵
上の地蔵は六路の交差点から東高野街道に通ずる道、下の地蔵は、東高野街道に沿ったところにそれぞれ建っていたが、道路が付け替えによって、動いたため、現在若干離れたところから、見守っている。、

六路の辻に立っている「お野立所」の碑は、大正3年大正天皇が、交野が原一帯で行われた陸軍特別大演習のために行幸された時の記念碑である。なお六路の辻の交通信号は、交野市内では、最初につけられたもので、その点灯は、昭和39年12月12日午前10時である。

山根街道(山の根の道)

旧石器時代(1万〜2万年前)からの石器の原材料のサヌカイト(讃岐石)の交易路であったとされる。サヌカイトは、石の1種で、これを割ると貝殻の縁のような鋭い割れ口ができて刃となるため、ハサミや包丁のように衣服としての動物の皮の裁断、肉の分別に使われ、また動物狩猟用のに用いられるなど、古代人の生活に欠かせないものであった。しかしこの石は、近くでは,二上山だけしかなく、その交易路の道である。交野地方の旧石器時代の遺跡は、藤坂宮山、津田三ツ池、神宮寺、星田布懸、打上、忍ヶ丘という風に山根街道に沿って続いている。

東高野街道   

真言宗の根本道場である京都の東寺と高野山を結ぶ道である。一般の大師信仰の高まりによって、多くの信者の往来が続いた。星田駅の西側は、スーパー・トップワールドの北側から大谷村落に抜ける、幅2mあまりの車1台が片方向で通れる程度の細い昔の街道である。大谷村落の中では、この道を挟んで西側は、寝屋川市で、東側は交野市(星田6丁目)であって、両市の境界になっている。昔この大谷一帯は、街道が栄えて小さな宿場町であったが、JR(前身の関西鉄道)の開通によってさびれ、現在はその面影はない。、

星田駅から東側へは、泉州銀行の横を通って枚方高田方面へ左折しJRの高架をくぐってすぐに、右斜めに臨港製鉄の方に向う、同じく2mあまりの農道のような道である。
交野市史の地名解説ではこの道の西側に面した金門(かなかど)に鉢かずき姫の長者屋敷の豪華な門が車司(くるまうじ)に長者の牛車の車夫や牛の飼育するなどの従者が住み、堀之内に長者屋敷があったのではないかとしている。
また、道の東側にある市の西は、市場の跡で昔星田牧が盛んであった頃ここに牛馬の市場があったのではないかとしている。

中川通り
星田神社、星田寺の西側に沿って中川が流れているが、この川沿いの道である。この川は、最近では、水路の一部を暗渠にして埋め立てているため、水路がせばまり、道が広がっている。星田神社のところを南に行くと昔円通院という寺があったが、この地点が道の始まりで,ここから先の中川の上流は、紐谷川と言った。この円通院は、明治の始めに廃仏毀釈で廃寺になり、今はない。北に進めば慈光寺があり、その北の道がすじかい橋があったところで,戸長役場、や高札場(幕府の掟・禁令などを知らせる掲示板)などがあり、明治25年ごろには村役場があったこともある。さらに北には善林寺があり、そこの三ツ辻を東に行くと山根街道に出る(辻屋裏)。その間は2回大きく屈曲して遠見遮断になっていて、戦略的要素が強い。この辺が大坂夏の陣の宿陣の地である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

現在の芝塚の一里塚跡の碑

元村役場跡付近  西側は、妙音池に浮かぶような形で建っている星田会館である。

大谷集落(星田6丁目)内

一里塚のあった付近(星田北6丁目)

六路の辻と中川通を結ぶメイン道路であり、とりわけ関西鉄道、星田駅開業以後は、村の表玄関になる道路であるが、現在でも車1台がやっと通れる、東行き一方通行のかぎ状に曲りくねった見通しの悪い道である。

星田公園の南あたりの梶ヶ坂付近。この辺は、金堀の里ともいって古くからの集落であり、また鍛冶ヶ坂は、鍛冶屋さんが多く住んでいたともいう。

 

                       

半尺口の大師堂(元は一里塚にあった。)

 

 

 

 

千原交差点付近。前方は神出来(かんでら)の交差点の南側で、枚方・富田林。泉佐野線と交差し、枚方へ抜ける。最近道路が拡幅され、交通量が増えている。左方向は、乾村から星田市民センターを経て星田駅へ向う。千原の里、乾の里は、古くから開けた集落であった。右側は、藤が尾団地で昔の森の木を経て防龍付近へ。

妙見道標と妙見参拝ルート
大阪府下で妙見宮の方向を示す道標は、15基立っている。そのうち7基は、星田にあって、残る8基は、大阪市鶴見区、寝屋川市内の打上、寝屋、秦、四條畷市岡山、大東市の深野、諸福と守口市にあり、西方面に限定されている。大阪方面からの広域ルートは、寝屋川沿いに徳庵、住道、東高野街道で岡山、打上、星田と来るルート。もう1つは、京橋口から京街道で、守口、黒原、秦、寝屋と来て、星田に入って山根街道を使うルートがあった。

西の村の本通

六路の交差点を東側に入り、星田小学校の北側を通り、星田の古くて、広い旧市街地の中心を抜け、中川通りと交差するまでのメインとなる道である。しかし、この道は、道幅2〜3mの現在は東行き一方通行の細い道で、しかも、道には適当に曲線がつけてあって、先の見通しが悪く、途中各辻で南北方向の道と交差、接続する場合も、1m内外の細い道とのいびつの三つ辻あるいは四つ辻になっていて、わざと迷路のような、敵の進入防止を考えた城内のような道づくりがなされている。幾多の戦乱を経てきた交野の古い町で共通して見られる町づくりである。

東枚方街道
星田1丁目と藤が尾5丁目の境界あたりを始点として、神出来(かんでら)の交差点の少し南側で枚方富田林泉佐野線と交差し、枚方に向う道である。JR片町線(学研都市線)の前身である関西鉄道(当時民営)
は、明治31年に開通したが、京阪電車の開通は、12年後の明治43年であり、当時の枚方の人が乗り物を使うためには、星田か津田に出る必要があったのであろう。当時の枚方からは、枚方ー田井−住道ー八尾に至る幹線の枚方街道(古くは、河内街道といった。)があり、その東側を通る道であるので、このように呼ばれた。

一里塚
一里塚は、東高野街道で昔の旅人への距離の道しるべとして、街道の両側に五間四方位の広さを盛土にして日陰をつくるために、松ノ木などをうえた。ここでもお堂があったが、明治時代に、村の入口の半尺口に移された。