ひさごの淵
昔は瓢箪の形をしていたのでひさごの淵と呼ばれていて、名所の1つであったが現在は、ゴルフ場の敷地内で変形した形で調整池としてつかわれている。
この池は、深淵で,かれることが一度もなく、波をたてず、静まりかえっていた姿は凄絶であったといはれる。

星田新池周辺で見つかった埋蔵金
1 縄文住居跡遺跡発掘の際に中国の2000年前の通貨「貨泉」が貝殻に入って発見
2 星田新池の南側の早刈の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が発見
3 土手と隣接する山との取り付け部分の大正期の工事中に4枚の和同開珎と平安以前の中国の 貨幣64枚発見

南視点(文字の向きからの)小松山
北視点から見た小松山

万願池の跡付近
上の図は明治の地図記載の万願池があった付近である。星田山の山頂一帯の水や、隣の日高山からの谷水が集まるところで、湧水も多かった。と思われる地形である。明治中期に星田山頂上からこの付近まで杉や檜の植林が行われたため、雨水の流れが変わり、流出土砂が増え、埋まってしまったのであろう。下の図は下流に昭和54年に
作られた堰堤であるが土砂で埋まってしまって全く機能していない

星田山の前峰にあたり、全貌の見通しが良い。一蓋被p

星田山頂上馬ガ峯
頂上が縦長の馬の胴体の形をしているので、馬が峯と呼ばれたのであろう。三角点があるだけである。頂上付近の北側一帯は明治期に植林が行われ、杉、檜林などの樹林帯である。

星田村元禄絵図が画く傍示川荒れ(河川の氾濫被害地)
星田新池の築造は、明治43年であるが星田大池の南側に東西96間(175m)南北77間(135m)の傍示川荒れが描かれている。

明治初期の絵地図で歩く星田の里山と府民の森星田園地
この時代、燃料は、薪が主体で毎日の生活は、薪拾いが欠かせない、交通は、歩行交通で山越えが、最良の交通ルートであった時代、
山は村人にとって最も身近なものであった。


付録 2500分の1の星田の地図をGPSで歩く
明治の地図の示す山道ルートに従って、ポケットGPSで記録し、山の形がほぼ立体的に見られる縮尺2500分の1の地図(大阪府都市
計画課版)でナビゲートしている

星田の山の区分

府民の森星田園地

GPSによるルート地図

各地域毎に明治の地図のルートに従って歩き、ほかにも歩けるところは、ポケットGPSをもって歩き、このトラックを明治の地図に掲載の地名を
書き写した2500分の1の地図に描き対比している。

地域間の縦走
各地域の東西間の縦走は先の寝屋川市、四條畷市との境界は尾根筋に作られており、これが古い尾根古道となっていて(ゴルフクラブ四條畷
に使われている廃小松寺のあった小松地区は一本北側の尾根すじ)これらの道を中心に繋がっている。特に、関西電力の送電線が市域の境
界に作られることが多く、その保守道にこの尾根筋が使われている場合が多いため特に現在でも整備された道が多い。

星田の里山の中央   生活の山星田山と星田新池地区
電気ガスをはじめ今日の化石エネルギ時代と違ってこの時代は、炊飯、風呂などに薪材は欠かせない貴重な資源であった。また自動車
交通以前の徒歩交通の時代は、山越えは最短の交通ルートであり、今日のように山は単なる環境でなく、生活資源の調達や生活そのものに組込まれていた時代である。この地域は住民にとってその中心であっただろう。


絵図の土砂川原は、交野市作製の小字地図(大字星田は住所地で現在も使われているが小字は現在つかわれていない。)では割林であり、この地名の由来は、村人の薪材を伐採する雑木林としている。またその西側は両地図とも早刈であるがここは草原主体の禿山で、肥料にする採草地であったとされる。
底は頂上の西、隣接する日高山の頂上の間を星田新池まで結ぶ広範な地域で、昔の人は、星田山のことをぼって山とも呼び、親しまれた名前である。拂底の意味は、深くて長い谷の意味であるが、明治初めの古文書で、ぼってを「甫(広い)天」とも書かれており、山の地名の場合はこれであろう地獄谷の地名は、死者や牛馬の死体を葬るようなところにつけられることが多くいが、ここの場合面積が広すぎるし、その領域のかたちからして、星田新池の築造は、明治末期であり、それ以前は、古地図で描かれているようになすび石の谷とぼって谷が合流し、ぼって川となって傍示川に直接流出していたので、大雨時には度々河川が氾濫していたとおもわれる。星田村元禄絵図では、星田大池の横に水害被害地を描いているが、このように大雨時にはなすび石の谷から尾根筋を越して東側の袋谷にかけての地域は、生き地獄を味わうような谷の流れであったのでこのような地名がついたのではないかと考えられる。

星田新池
星田新池の築造は明治43年で、この地図では記載されていない。ぼって谷となすび石の谷が合流し、ぼって川となって、そのまま傍示川に流入している。この池ができても星田駅(開業年)周辺にはとどかず、駅の周辺は、水を必要としない綿花畑であって、大正元年の大谷新池の完成によって、水田が駅周辺に広がった。星田大池は寛永年間に改修した村の記録があり古い。

築造中の縄文住居跡遺跡の発見
池の築造は、地図の富士山の形をした2つの旭の山を取り崩し、上流に土手を作ったが,旭の山から十数個の竪穴式の縄文住居跡や土器の破片,、鳥獣の骨などが発掘された。またこの時中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って発見されている。

 

ぼって滝、万願池、ひさごの滝





















星田の里山の東部    小松寺(廃寺)とその参道



























廃小松寺は、星田の南端の小松の小松山にあった真言宗東寺派の七堂伽藍のお寺で、江戸時代元禄期に廃寺となった。昭和40年頃から現在のゴルフクラブ四條畷のゴルフ場の一部になっている。廃小松寺が建っていた小松山自体の大きさはは、南北250〜300m、東西500mで小松が谷という懸崖を中心に建っていたとされる。山自体は、3層構造になっていて、上部2層から屋根瓦等の遺跡が残っていたとされる。この寺の創建は、平安期の845年の天台宗の学徒によって建てられた荒山寺が始まりとされている。

廃小松寺の建っていた小松山の挿入絵図について
この絵地図では、廃小松寺跡の小松山、なすび石の滝となすび石,菖蒲の滝。哮が嶺、関内道、妙見山などの名所や特に顕彰箇所については挿入絵図が描かれている。その場合地図の方位は全般的には南上位であるが、顕彰しようとするものによってそれにふさわしい角度をとっており、例えば哮が嶺や関内道の地図の付近は東上位をとっている。小松寺の場合は、南北双方向から見えるようになっている。通常は南上位で小松山の北斜面が見れるが、
、。)や縮尺にこだわりなく拡大して描かれることもある。特に小松山については,北斜面は、北から見た形を南斜面については南視点で描かれており、通常の北視点では見えない石垣遺跡が描かれている。堂跡や鐘堂の文字が反転して描かれているのはその視点の向きによるものである。











南視点から見た小松山(文字の向き



宗円ころりとは、室町時代応仁の乱の頃に、小松寺の貫主であった宗円が、険路であるこの場所で、誤って谷底に落ちたが、首にかけていたお地蔵さんのお守りのご利益で一命をとりとめたということが評判になり、この地を宗円ころりと呼ぶようになった。この参道は明治の地図の妙見川の大宅山から始まっている道でほとんどそのまま残っている。この道の途中細道の手前で分岐して、現在の傍示川側道に平行して走っていた尾根道は、グランド、住宅地、道路など壊滅状態になっている。
地図の地名の八丈
小松寺から八丁あったことからなまった地名である。この付近には、八項(頂)、八畳ケ谷という名の小字があったが、その語源は、小松寺から八丁であるとされている

萱尾八丁の坂道
ほとんどの星田の住民が使った道であるとされている道である。傍示川(厳密には、星田新池から合流地点から上流は地獄谷川といった。)に沿った地名(小字名)は、萱尾といい、昔は、地図の吉本山の東を南に向き谷沿い道を進み、尾根筋に道を変えて昇り、茨尾の坂道の頂上から西の大門を通って小松山に入った。
上の写真は現在の写真で手前が中の山で奥が吉本山、間に背の高い擁壁がある。しかし吉本山の向こうは大阪通信大学グランドになっていて閉鎖されている。

はしご坂道
小松寺参道の一つで菖蒲の滝の北側から尾根道を登っていく道で、急坂になっており、昇り口で7〜8回ジグザグに方向を変える道ではしご坂という。
現在でも菖蒲の滝から妙見川の少し下流の山側に写真の堰堤がありその上に道がついているので越して行くと、昔のままの山道が残っている

菖蒲が滝
この付近から小松寺のあった小松までの地名も菖蒲が滝(龍)という。これは、小松寺の僧侶達が、この付近に薬草として菖蒲を植えて副業としていたからである。

郷土史と絵画に造詣が深い片山長三先生が昭和23年に描かれた廃小松寺。当時はかなり原型がのこっていたのであろう。昭和53年に古文化同行会で訪れた時は高さ数メートル長さ10数メートルの石垣積みやかわらなげが沢山散らばっていた。

菖蒲が滝とはしご坂道の滝 絵図で菖蒲が滝ともう一つの滝が連続して描かれている。
この滝ははしご坂道の登り口にあった滝で現在は、下図のように堰堤にかわっている。

天保八年の星田,打上地区の山の地図 
 右側に打上の村落の絵。と打上村 。図の下側(北側)に右(西)から打上村と池(久保池)が2つと少し離れて打上神社の池であろう。中央にぼって谷となすび石の谷、東側に天の川が描かれている。上部の山の境界の向こうは、隣接する各村の領山で、ぼって谷の西側は樹木の図が多く描かれていて「繁り山」と表示されていて、ぼって谷の東側は樹木の図がなく、小松の地名と「禿山」と表示されている。久保池とその近くにある打上神社の池は、現在、でも寝屋川市(古くは打上村。)の飛び地になっていて、この池からの放流水は、寝屋川の打上村民が水利権をもっていた。従って久保池に流入している上流の細崩谷、西谷流域は、地名は星田村の一部であるが、土地利用に関しては、別の規制があったことが考えられる。
江戸期の星田村の地詰帳によって星田村の家数は332軒であり、明治はじめでは377件で、江戸時代から唯一の町であった守口町の177軒より多く、北河内で最も大きい村であった。このことは、明治22年の町村制施行の際、枚方町が6町村合併し、620軒になるときまで続いたが、星田村は、多くの人口を抱えていた分、その燃料確保の負荷が大きく、それだけ禿山が進んだということも考えられる。これに反してぼって谷以西の日高山、西谷地区は繁り山となっているのは、打上地区の水利権との関係で、薪の伐採など別の調整があったことが考えられる。 

ひさごの淵
昔は瓢箪の形をしていたのでひさごの淵と呼ばれていて、名所の1つであったが現在は、ゴルフ場の敷地内で変形した形で調整池としてつかわれている。
この池は、深淵で,かれることが一度もなく、波をたてず、静まりかえっていた姿は凄絶であったといはれる。

万願池の跡付近
上の図は明治の地図記載の万願池があった付近である。星田山の山頂一帯の水や、隣の日高山からの谷水が集まるところで、湧水も多かった。と思われる地形である。明治中期に星田山頂上からこの付近まで杉や檜の植林が行われたため、雨水の流れが変わり、流出土砂が増え、埋まってしまったのであろう。下の図は下流に昭和54年に作られた堰堤であるが土砂で埋まってしまって全く機能していない

ぼって滝
ぼって谷側にある滝である。途中から斜めに落ちる風情のある滝である。

五段滝
m位の落差を五段になって流れている滝である。水量が少ない時は見落とし勝ちである

北の小門遺跡
小松山の外にあり、唯一現存する北の小門の石積み(上)と礎石群(左)尾根筋に建っていたが数多くの礎石が尾根の麓に転がっている

蝙蝠岩
明治の地図に描かれているが、蝙蝠が羽を広げた形の岩である。倒れた大木の下敷きになった図である。

聖滝となすび石
昔はなすびに似た茄子石があったことからなすび石の滝と呼ばれていた。生駒山系の三滝の一にあげれれる名滝で夫婦滝になっている。右は明治の地図に書かれているなすび石で数10個に庭石となって処分されたという。

一蓋被(いちがいかぶり
星田山の前峰にあたり、全貌の見通しが良い。

続きの府民の森
星田園地版に移る

逢坂道と日高山
逢坂道は,星田新池付近から始まる尾根道で、穏やかな昇りで、古くから使いこなされた歩き安い道である。逢坂道は、明治の地図の名称で、頂上付近で、西側の寝屋川市打上地区から打上神社、石の宝殿を通ってきた道とも合流している。写真は、日高山頂上付近で高さ260m位で、頂上域の一番高いところという感じで険しさを感じない頂上である。ここから四條畷市逢坂に向かう道は、四條畷市側は大阪万国博の頃から大幅な土砂採集が行われたことや、原型がなくなっているのでわからないが、現在でも明治の地図の国見嶺あたりから府民の森室池園地に向かう道を使っているがこれに近い道をつかっていたのであろう。

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左上は現在も残っている小松山の上層部、左下は、北側にあった星田側の茨尾の坂道の頂上から図のところで、山で連なっていて、その尾根筋に南の大門が建っていてそれをくぐって入山した。右は現在掲げられている標示版。

星田山頂上馬ガ峯
頂上が縦長の馬の胴体の形をしているので、馬が峯と呼ばれたのであろう。三角点があるだけである。頂上付近の北側一帯は明治期に植林が行われ、杉、檜林などの樹林帯である。

夫婦石
明治の地図の夫婦石の地名となった景色で、寝屋川市打上の方角から見れば山の頂上が夫、中腹のコブになった部分が妻で西側の打上の方向から見た形でこの山の西側の法面にあたるところの地名を夫婦石と呼ばれた。特にそこにそのような形の石があったわけではない。西星田の久保池から出ている放水路に架かっている橋は、夫婦石橋というが、この地名からきたものである。

土水小場
ここの地形は、西谷筋と隣接して一本の尾根筋(夫婦石の尾根筋)が並んで走っているがその間隔が比較的長いところではお皿のような谷が作られ、穏やかな勾配で数10m幅の広い谷で、変わったオープンスペースが何箇所かつくられている。この雰囲気を土水小場と称して地名(小字名)となったのであろう。最近は樹木が増えてきており、オープンスペースという点ではマイナスである。

星田の里山の西部    逢坂道、日高山、西谷、久保池

廃小松寺は、星田の南端の小松の小松山にあった真言宗東寺派の七堂伽藍のお寺で、江戸時代元禄期に廃寺となった。昭和40年頃から現在のゴルフクラブ四條畷のゴルフ場の一部になっている。廃小松寺が建っていた小松山自体の大きさはは、南北250〜300m、東西500mで小松が谷という懸崖を中心に建っていたとされる。山自体は、3層構造になっていて、上部2層から屋根瓦等の遺跡が残っていたとされる。この寺の創建は、平安期の845年の天台宗の学徒によって建てられた荒山寺が始まりとされている。

廃小松寺の建っていた小松山の挿入絵図について
この絵地図では、廃小松寺跡の小松山、なすび石の滝となすび石,菖蒲の滝。哮が嶺、関内道、妙見山などの名所や特に顕彰箇所については挿入絵図が描かれている。その場合地図の方位は全般的には南上位であるが、顕彰しようとするものによってそれにふさわしい角度をとっており、例えば哮が嶺や関内道の地図の付近は東上位をとっている。小松寺の場合は、南北双方向から見えるようになっている。通常は南上位で小松山の北斜面が見れるが、
、。)や縮尺にこだわりなく拡大して描かれることもある。特に小松山については,北斜面は、北から見た形を南斜面については南視点で描かれており、通常の北視点では見えない石垣遺跡が描かれている。堂跡や鐘堂の文字が反転して描かれているのはその視点の向きによるものである。
南視点(文字の向きにからの)小松山図

 

 

星田の里山の東部    小松寺(廃寺)とその参道

続群書類従の小松寺縁起(東寺の記録から塙保己一の検校によって筆写されたもの。と関係図面としては唯一現存する長禄4年(1460年)の三重の塔建設供養会の会場図面)をもとに想定した小松寺の想定図である。
小松寺縁起では伽藍や施設、人員配置について根本草堂(十一面観音)、金堂(本尊は弥勒菩薩。)、講堂、宝塔、鐘楼、経蔵、西の大門,北の小門、東谷宝蔵、南谷御倉、西谷食堂、北谷閼伽井、戌亥角矢土,丑寅角大池、未申角小池,辰巳角湯屋、閼伽井上毘沙門堂、坊舎67宇、僧衆120人、児童(小僧)38人と記載している。後者の三重の塔建設供養会では、本堂,鐘堂、三重の塔のほか楽屋、集会所、鎮守のための施設が描かれているが、この三施設が根本草堂、講堂、経蔵の既存施設を行事に一時的に転用したものであり、以上根本草堂から経蔵までの6伽藍が懸崖の上の台地にまとまって建っていて、東谷、西谷は明治の地図に北谷と書かれているように一種の地名であり、宝蔵は東谷、御倉は南谷、食堂は西谷、毘沙門堂は、北谷の閼伽井の上にといった形でそれぞれ小松山の方位の法面に近い台地上に立っていたことが考えられる。


以上のことから、明治の地図で描かれている堂跡は、金堂と南谷の御倉、鐘堂である。

星田新池周辺で見つかった埋蔵金
1 縄文住居跡遺跡発掘の際に中国の2000年前の通貨「貨泉」が貝殻に入って発見
2 星田新池の南側の早刈の半島から土器に入った数十枚の和同開珎が発見
3 土手と隣接する山との取り付け部分の大正期の工事中に4枚の和同開珎と平安以前の中国の 貨幣64枚発見

星田の山とは、ここでは、星田地区の南部に今も残る山林地帯のことであるが、大きく分けて、東側は、府民の森星田園地と西側は、昔の自然のままの状態で残っている部分でここでは,星田の里山と呼ぶ。
星田の里山部分は、その間を南北になすび石の谷とぼっての谷が流れていて山を三分割していて、それぞれの山頂などの中心から麓にかけて数本の尾根筋が走って、山岳を作っていて東部、中部,西部の3つの地域に分けることができる。この3地域は、それぞれの持つ地域的、歴史的な特色に注目し、上図のとおり、府民の森星田園地のほかに、星田の里山東部、同中部及び同じ西部に分けている。
以上の地域区分に使っている地図は、堺県管下河内国第三大区九番領星田邨萬分之六図(略称「堺県星田邨万分の6の実測絵図」。)といって実測地図であって、これからは、「明治の地図」と呼ぶ

築造中の縄文住居跡遺跡の発見
池の築造は、地図の富士山の形をした2つの旭の山を取り崩し、上流に土手を作ったが,旭の山から十数個の竪穴式の縄文住居跡や土器の破片,、鳥獣の骨などが発掘された。またこの時中国の2000年前の通貨である「貨泉」が貝殻に入って発見されている。

 

 

 

http://cgi.eonet.ne.jp/cgi-bin/count.cgi?user=k-oya