古絵図、古写真で綴る古い星田
古絵図 星田名所記 明治元年〜3年(1868〜1870)
堺県星田村絵図 明治7年〜11年(1874年〜1878)
古写真 主として昭和43年〜46年(1968〜1971年)
印字山丘陵から見た昭和43年頃の星田
昭和46年頃から大阪府住宅供給公社が藤が尾団地の開発を始めるが、その前に当時天井川になっていて大きな堤防ができていた妙見川の堤防をけずる改修工事を行われたがその時期の写真である。住宅開発としては、ほかに松下電器共済会(当時)が昭和39年頃から進めていたが、西の方向に中層住宅が一部写っている。星田の市街地は、妙見口から北、西方向にほぼ限定されているが、学研都市線の向こうに 昭和37年創業の臨港製鉄などの工業団地の工場群もみえる。
天井川の妙見川とその堤防の除去、水路の平面化工事
妙見川は、菖蒲の滝から上流は小松谷川といったが、その周囲ははげ山が多く、星田の山からの激しい土砂の流出によってたびたび氾濫を起こしていたが、長い歴史の繰り返しの中で天井川となっていた。左の写真は、大堤防の状況と上の図は、昭和6年に村が川底の下にトンネルを作り交通路を確保した様子。下の写真はこの天井川の改修工事のために造られた仮水路工事の様子を写したものである。星田名所記が描いている同じ付近の状況で、このあたりは辻屋裏と呼ばれていて、当時は土手を昇って川を渡っていた。松の木この付近は、1本松とその下にお地蔵さんが描かれているが
右の写真は、移設されて現在妙見口交差点の東南に祀られているお地蔵さんである。
印字山と藤が尾
印字山は現在の妙見坂1丁目、2丁目付近をいい。その西側の3丁目はにごり池といったが、印字山の語源は、もともと平安朝時代から星田にあった岩清水八幡宮の御料地に含まれ、徳川時代でも徳川家からこれを承認する御朱印状が交付された土地にあたることから印字山なまって「ねんじ山」といはれた。(写真は八石七斗七升の家康の朱印状)
藤が尾は、小字名できさいち道(山の根の道)と妙見囲まれた地域を藤が尾といったが、これは印字山には昔は山藤が多く咲いていてこの山を藤山ともいったがその藤山の下手にある土地である意味で藤が尾といった。
星田村、星田地区の人口の推移
元禄3年(1690年) 332軒(1535石) 1631人
市橋領 313軒(1306石。無役家 103軒)人口 1524人
石清水八幡御供料
(善法寺領) 9軒 (120石、同 3軒) 同 57人
今井領 10軒 (109,8石、同 5軒) 同 50人
明治17年 431戸 1961人(入寄者 43人 出寄者 29人)昭和40年 1,10 4所帯 4,520人
昭和45年 2,092所帯 7,347人
平成23年 3,074所帯 9,524人
大阪府地誌(明治17年大阪府文書)による星田村のデータ
村役場 光林寺内(明治15年現在)
民業 農業(専業) 425戸 商業 30戸
産業 醤油 20名 木綿 1,800反 瓦 200坪瓦 渋 20名 以上京都、大阪、近村に売却す。
造酒税 95銭38銭 醤油税 3円17銭 水車税 1円18銭 素麺税 16銭 牛馬 牡馬 10頭 牝牛 63頭 牡馬 1頭
車 人力車 4両 荷車 7両
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