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はげ山が多く、すり鉢のように星田の山水を集めていた地獄谷川(現在の星田新池から上流。)やぼって川の水を受けて傍示川は、妙見川と同様大雨ごとに、たびたび氾濫を起こすので、平安時代には牧場につかわれていた。明治の中期に星田大池に向けての分水路がつくられ、また末期に星田新池が築造された結果、今日では雨の日以外は水がほとんど流れていない。傍示川の名の由来は、傍示とは目印のことで平安の頃ここは星田牧の上位団体の上牧傘下の福牧の税の取り立てが厳しく、そのいざこざから奈良興福寺別院の円成院に寄進し、その荘園になったが、その荘園境界の目印に川筋を使っていたので、傍示川といわれたのである。
下図は星田村元禄図が描く不おじ(傍示)川あれ(荒れ)で東西96間(175m)。南北77間(135m)の広範な河川氾濫による被害地が描かれている。
傍示川

宿陣のとき家康から拝領を受けた火入れ、湯飲み(左)と10枚の絵皿

平井家の石碑(現存)と名所記が描いてる当時あったと思われる家康御座所を模した石積み

元和元年5月5日。大阪夏の陣のとき大坂方攻撃のため平井家に宿陣した。当時の平井家の屋敷は、1丁四方あり周囲に堀がめぐらしてあったと伝わっている。先に四条畷市岡山に陣をかまえていた2代将軍秀忠,本多正信、安藤重信、土井利勝、藤堂高虎等が参集し軍議が行われ、翌朝出陣していった。宿陣の間、新宮山の松に軍旗の白い旗が掛けられていた。

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徳川家康宿陣の平井家

沙見安の子孫が明治の始まで住んでいた屋敷跡(農地)

けんしきの子孫が近年まで住んでいた家

天正10年6月2日の本能寺の変で、織田信長が明智光秀の反叛によって滅亡したとき、家康は丁度少人数の従者とともに泉州堺の舶来文化の視察をしていたが、急遽本国の三河に逃げ帰るめ、星田から山城方面に抜ける間道に精通した道案内の農民を当時星田の地頭であった平井三朗右衛門から派遣されるまで星田妙見近くの竹藪でひそんでいた「徳川家康ひそみの藪」と呼ばれている出来事である。そのとき徳川家康一行を山城の木津川べりの三山木村の飯の岡の村まで案内したのはけんしきと沙見安(しゃみやす)という2人の農民である

徳川家康潜みの藪と碑
(現在妙見小学校敷地)

徳川家康ひそみの藪

民家の門前にあった祠であるが現在はなくなっている。当村で最も古い神祠であるとの伝承がある。祭神は大和の三輪山の神を水田を守る神として祀ったとされる。ここは昔森であって飲料用の湧水があって、神職は、もともとは大和の三輪山からきた三輪氏が世襲で務めていたが地の有力者があとを継いでいたとされる。場所は先の垣内道の半円形状の道を星田神社の方に曲らずに直進したところにあった。

三輪明神祠

星田神社の本殿の背後に観音堂、交野明神、三輪明神と星田寺が描かれている。交野明神は、現在星田神社の外宮の古宮のことで仁徳天皇を祀っていて、他の神社の文献から平安時代からあったとされる。観音堂は、元禄十六年の小松寺(小松山)が廃寺になるとき十一面観音がここに移されたが、明治になって、廃仏稀釈で星田寺に移り、現在十一面観音堂にで祀られている。

下段の宮宅山花岳院は星田寺のこと。その右は十一観音像(交野市指定文化財)

大谷南の大師堂
星田には周辺住民の管理する大師堂が15あり弘法大師に対する信仰が強かったがその1つであり、名所記もその祀っている状況をえがいている。

治右衛門広(星田西1丁目)

交野(星田)と寝屋川(打上)の境界にあたるこの地は昔冶右衛門広といったが、現在の東寝屋川駅から東高野街道と山の根の道が共用の道として重なっていたが、このお大師さんから山根道は旭幼稚園の南側と旭小学校の北側を通る道に、東高野街道は府道(泉佐野交野枚方線)と交差し星田駅の南側の駅前通りに通じる道に分離する。

山の根の道
山の根の道は、昔のけものの道であり、山のふもとをめぐっている。あるいは石器時代に二上山付近にしかない石器の材料のサヌカイト(讃岐石)の交易路であるともいはれ、いづれにしても徒歩交通時代における広域交通路のことをいったのであろう。星田から寝屋に通ずる道も山根道といはれる。

全現堂池と富士浅間大日如来

妙音池は、新宮山の放生池として造られ星田では一番古い池とされている。その名の由来は、新宮山八幡宮の名鐘の音のひびきからきているとされ、池の中に弁天さまが祀られ弁天島となっていた。現在この池に星田会館が建てられているが、弁天島も建て替えて変わった形で残っている。

妙音池と弁天堂

全現堂池は、もともと上の池、中の池、今池と3つの池が並んでいたが、中の池に延宝時代(1670年代)に富士浅間神社で開眼供養を行ったとされる富士浅間大日如来を祀っていた浅間堂があって、この池を浅間堂の池と言われた。今池は、近年に埋め立てられ住宅になり、上の池と中の池は仕切りの堤防がなくなり現在では全現堂池と一つの池になっている。

右写真の本堂とその左の茂みの奥にある左写真は弘法大師の八丁三所伝説(後述の星の森参照。)のまつられた大石

光林寺大正の中頃までは、旱魃のときには絵図の左上方にある星の石を祀って雨乞いの行事を行うのが慣例であった。寺の周辺に古い集落であるとされる千原、野辺、乾の各里の人家が描かれている。

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慈光寺
本堂の右側の鳥居とその奥にある石段と祠は昔ここに金刀比羅宮」が祀られていたが明治の始の廃仏稀釈によって星田神社に移され現在外宮として祀られている。この寺の創建は不明であるが、寺内の十三石仏碑は、慶長12年(1607年)頃の作とされている。左の鳥居と祠は星田神社の外宮の
金刀比羅宮
年々周辺に住宅が建っていって規模が小さくなり、大師堂のほかに最近では、数柱の五輪塔があるだけになってしまった。
中川とその周辺

古絵図 星田名所記 明治元年〜3(1868-1870

堺県星田村絵図 明治7年〜11年(1874-1878)    

古写真  主として昭和4346年(1968-1971

左の写真は梶ケ坂の狸藪と言われたところの山根道であり(昭和40年前半)、坂の頂上付近は、昔は、金堀の里といはれ古い集落で、現在は天理教教会が建っている。中央の写真は頂上から今池(今は埋め立てて今池住宅になっている。)の方への下りの道である。右は梶か坂の道幅など最も雰囲気が残されている現況写真である。

今池から垣内(かいと)道へ
梶ケ崎道

星田神社、星田寺、三輪明神

旧石器時代の道を見降ろす(高岡山)

高岡山から見た山の根の道であり現在では道の左右両面に高岡幼稚園、旭小学校の裏門が続く道である。昭和54年にNTT社宅の建設中に旧石器時代(15,000年前)の石器128点などが見つかった。その状況からナイフの製造工場」であったとされた。山の根道はサヌカイトの唯一の生産地である二上山麓への石器時代からの交易道であったということを傍証した出来事でもあった



原子力研究施設の反対運動

現在泉南郡熊取町の原子力 京都大学原子炉実験所の建設の際、昭和34年この地が建設候補地にあがったが、反対運動のため、断念し熊取町にきまった。大師堂の松の木の下で座り込み反対運動をつづける地元民

高岡山、星の森、大池

星の森は高岡山の麓と書かれているが、その後の住宅。墓地開発、中学校の整備などによって現在では、高岡山は小さくなり、お椀を伏せたようなほんの一山になってしまった(下右の写真は,みどり池からの高岡山。)。高岡山にあるお稲荷(三太郎稲荷。下左の写真。)さんは昭和のはじめまでは、毎年初午の日にみどり池の堤に多くの講の赤幟が立って稲荷信仰が厚かったといはれている。星田大池は、星田新池や大谷新池が明治の終わりから始につくられたのに対し、村の記録では寛永16年(1637年)に改修されておりそれよりも古い。池の大きさは、もとは6haあった。交野三中建設のため3,9haになったがそれでも交野で一番大きい池である。星の森は、弘法大師の八丁三所伝説の1か所である。

左は、星田北線の星田保育所あたりから見た畑の向こう側が山根道でありその道の向こうは今池である。中央の写真は、今池の道、星田北線と交差して、中川を越える手前に10m程残っている山根道である。厳密にいえば中川にかかる1番北の寺前橋はここにかかっていたのであろう。そうなるとこの橋の名前の寺前橋の語源にもなって明治始の廃仏稀釈でなくなった浄土宗の古刹円通院が橋向こうに建っていたことになる。右の図は、中川通りを交差して星田神社の正面鳥居、お旅所に向かう道を少し行くと半円形状に曲る場所にでるがその付近の道である。写真の手前の方向に200mぐらい行くと星田神社の正面鳥居に出る。この道の右側の地名は、上垣内、垣内(小字名)と続いているが、垣内とは垣根の中ということで、古い時代の水田耕作が広がる過程での新開拓地であったろうとされている。

左は、富士浅間大日如来。現在では通常はこの保管庫の中におさめられている。

新宮山(現星田公園)
星田公園は。もともと新宮山といったが、頂上の部分は高くなった部分と一段低くなった部分に分かれている。高くなった部分には新宮山八幡宮が建っていて、低い部分には宮寺である愛染律院が建っていた。平安時代に茄子作、郡津、私部、寺、森、私市、星田一帯は、石清水八幡宮の荘園になっていたが、鎌倉中期にこの荘園の鎮守のため、石清水八幡宮から分霊した新宮山八幡宮が建てられたものである。宮寺である愛染律院は明治始の廃仏稀釈によって廃寺となったが、新宮山八幡宮も同じ時期に星田神社にそのご神体を移して廃宮した。
なお,愛染律院にあった釈迦三尊像は、光林寺に移され祀られている


上左は星田神社の外宮の八幡社上右と下は今も残されている愛染律院の壁の一部と井戸
地神祠

中川から東側の地域は天野川、中川、妙見川など水田耕作に恵まれた地域で、星田の中心部の周辺の垣内、中垣内、外殿垣内などの地名は、古い時代の開拓地のことで、先祖が開拓に努めてきたとされる。この地神祠は、これら先祖を神として祀ってきたものであるとされている。

慈光寺の上流側にかかる橋で鐘突堂のところを通る道にかかる橋であ

川の向こうは高札場といって細長い建物は おふれなどを掲げた場所である。政治の中心広場であった。このあたりは最近完全に暗渠化され全面道路になっているがそれまでははすかい模様の石橋が残っていた。

中川は星田南線(保育所スーパーニッコウのとおり。)との交点から下流をいい。その上流は紐谷川という。中川は最近は管渠化や埋め立てによって川幅が狭くなり、道路の部分が増えているが、昔は、現在の星田北線(千原の交差点から妙見口に至る道)までに川に五つの橋が架かっているのみであった。上流から寺前橋(星田南線との交点にあった橋。)、除夜の四辻の橋、はすかい橋、中小路橋、野辺橋である。大正時代になって現在の星田北線の前身の道ができて6本になった。

斜交(はすかい)橋と札の辻

愛染律院

新宮山八幡宮と徳川家康の旗掛松

八丁三所伝説

嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に、弘法大師がある法を修められると山手に光明が輝いた。そこで獅子屈寺の洞窟で秘法を唱えると七曜の星が星田妙見、光林寺、星の森の3ヶ所に分かれて降った。その3ヶ所は三角形の位置にあり、それぞれの距離が八丁であったという伝説である。当時一般人が禁止されていた北極星信仰(北辰祭)に対して北斗七星信仰の道場を考えていたのであろうとされている。


除夜の四辻の橋
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