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明治維新後の星田村   明治17年12月大阪府誌(大阪府文書)より

 明治維新後、市橋家ほかの領地は、その一部が明治元年2月に大阪裁判所、司農局に返還されその管轄になったのをはじめとして、その後の管轄が南司農局、、河内県、西大路藩等の変遷を経て明治4年に堺県の所轄になり、明治14年2月に堺県の廃止により大阪府が管轄するようになった。

星田村 

明治5年2月以前 交野郡星田郷

 同年2月  河内国第5区に編入

 明治7年 堺県第3大区3小区

明治13年2月 区の名称を廃止

 明治14年2月 大阪府交野郡星田村

星田村役場

 光林寺内〈明治15年現在)

人口  1,961人(男  800人、女 861人)

   入寄者  43人     出寄者 29人

戸数

 本籍 422戸

 神社    2戸

 寺    7戸

貢租〈明治7年〉

地租 6、846円56銭

米 984石   

山税   72円3銭

米  10石

新聞税   26円81銭

米   3石

造酒税  95円38銭

醤油税    3円17銭

水車税    1円18銭

素麺税    16銭

賦金     5円91銭

総計 7、052円

税地  明治8年改正反別

田 191町5反2畝25歩

畑  38町7畝10歩

宅地 14町7反4畝20

藪地 5町3反6畝1歩

芝地 7町9反2畝16歩

山 369町2反6畝6歩  

総計 624町9反2畝28歩

 約619,000u

  (1町=992u)

牛馬 

 牡牛 10頭

 牝牛 63頭

 牡馬  1頭

人力車  4両

荷車   7両

  計 11両

山  哮が峯 小松山

川  天ノ川 妙見川 中川 傍示川

橋  上ノ橋(木製里道) 下ノ橋(木製里道) 小なべ橋(石製県道)


用水溝  中島溝(星田大池~最終一部茄子作村、一部私部との境界) 小山谷溝(紐谷〜   最終天ノ川)   新溝(天ノ川~最終茄子作村)

池 大池 見取池 今池 全現堂池 妙音池 川尻ノ池

道路 東高野街道(県道) 岩船道(里道)  私市道(里道)  私部道(里道)

掲示場

堤塘  天ノ川  妙見川  中川  傍示川

滝   鮎返滝 菖蒲ヶ滝 同女滝 割林滝(注「聖滝」あるいは「なすび石の滝」のこ  と) 同女滝

社寺  星田神社 小松神社(注星田妙見宮)光明寺 薬師寺 光林寺 慈光寺 小松寺     善林寺 星田寺

学校 公立星田小学校(慈光寺を徴用す。明治9年現在)  生徒数139人 男63人     女46人

古跡 哮が峯 徳川家康館跡 小松寺廃跡

1行以上文章欠落不明

醤油   同上 20名

木綿   質良 1,800反

瓦    質可 200坪

渋    質不可 20名

以上京都、大阪及び近村に売却す(明治14年調べ)

民業  農業(専業)   425戸

    商業       30戸

    女性    自家の業に従事





元禄の絵地図から見た星田村村落
元禄10年の星田村絵地図(交野市蔵)は、次図にその要点のみを摘記していが、村落は、中川を中心に形成されていて、ほかに、大谷地区(星田7丁目)で東高野街道に沿って村落形成している。道は、当時の広域交通路である山根街道と東高野街道。それに東枚方街道は、明治以降に拡幅されたが、その前身の道が描かれている。なお、東高野街道から、寝屋に向う道があるが、山根街道の範囲は、時代によって変動があり、この道も山根街道にあげることも可能である。また、不おじ(傍示)川荒れ、東西96間、南北77軒と東(妙見)川荒れ、東西200間、南北33間荒れの記載が両川の上流部分にあり、この地域は、水害の被害を受けていたのであろう。江戸期では、ぼって谷(星田新池の西側に流入している谷)以西は、繁り山で以東は、禿山とされているが、この元禄期においても小松山(小松寺廃寺のあった山。)を含めて一帯が禿山の色で描かれている。中川の上流は、紐谷川というが、地図に記載の円通院より南側が紐谷川である。しかし、この円通院や八幡宮の宮寺であった愛染律院は、明治初期の廃仏毀釈によって、廃寺となっている。
江戸時代の星田三領家と領地

徳川政権樹立後の星田は、大坂城攻めに功労のあった市橋家(市橋長勝)と岩清水八幡宮(善法寺)、今井家(徳川譜代大名.後に同じく大久保家に変わる)の所領地となった。
各領地の石高(推定 元禄3年ー1690年)
村高(合計)               1535石余り
市橋家領                1306石
岩清水八幡宮御供料(善法寺家)  120石
今井家領                  109.8石

領地毎家数・人数   (役家とは土地を所有していて、無役家とは自分の土地を所有していない農家)
市橋家領      313軒      人数 1524人 (うち役家  210軒  無役家  103軒) 
岩清水八幡宮御供料(善法寺家)
             9軒       人数57人   (うち役家    6軒  無役家    3軒) 
今井家領       10軒       人数50人   (うち役家  5軒    無役家    5軒) 
村中合   332軒    人数 1631人 (うち役家 221軒  無役家111軒)


星田農民の持高別人数
40石以上 30石以上 20石以上 10石以上 5石以上 1石以上 1石以下
     人
    1
         1           4         21          67          162          99            355
この資料は、河内国交野郡星田村地詰帳(交野市教育委員会・交野市文化財事業団発行)をもとに和久田 薫氏が、農民個人毎に積み上げ試算されるなどによって作成されたものの総数部分である。

徳川家康の旗印の白旗(大阪城天守閣の資料より転写)

名所記が描く宿営地平井家の庭。記念石碑と家康宿営の書院の間を模した石棚が描かれている。

徳川家康宿陣の地  江戸時代
元和元年〔1615年)5月5日大坂城攻めのため、徳川家康は、午前9時京都を進発し、午後3時星田の里正〔村の長)平井三郎右衛門清貞宅に宿陣した。一丁四方ある屋敷内の北の方にある建物で、五間四方を高く上げた奥書院を家康のために用意した。平井家では、屋敷を囲む堀でとれた鯉を料理して差し出した。二代将軍秀忠は、先に四条畷市岡山で陣を構えていたが、家康が到着するや、陣屋で秀忠,本多正信、藤堂高虎、土井利勝、安藤重信等と軍略会議を行った。東軍16万人のうち、家康の手兵1万5000人は、星田から打上に野営したが、その夜は、豪雨があり、夜襲もあろうかと警戒した。家康の旗印の白旗は、新宮山上にあった松に掲げられた。翌6日大坂方が八尾、久宝寺で討って出たので、午前10時に出陣していった。

延命地蔵のお堂

徳川家康潜みの薮の碑
徳川家康潜みの薮
伝 徳川家康潜みの薮   
安土桃山時代
妙見坂小学校東南の一角(フェンスをして保存)
天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変の時、堺に滞在の徳川家康は、急遽本国三河に帰るべく、2日の深夜、この竹薮に潜んで、星田から選出の二人の農民の道案内で、抜け道を通って無事帰還することができたと伝承されている。

妙見山南の墓地  鎌倉〜室町時代
星田妙見(小松神社)の裏参道入口の下にある。木造瓦葺のお堂の中にある。古いもので鎌倉時代、室町時代まであるが、江戸時代の新しいものはない。種類は,五輪塔,一石五輪塔、舟型板碑等立派なものが多く、その数は、200を数える。当時の庶民の経済力では建てられるものではない。昔山中の四條畷市との境界に近いところに、西暦845年創建の小松寺があった。続群書類従の小松寺縁起によると、坊舎60宇,僧衆120人、児童38人の大寺院であり、その後衰微していき、江戸元禄期に廃寺となった寺であり、その上級の僧の墓であろう。この墓は、果樹園にするべくこの土地を買った人が耕してみると地中から石塔類がでてきた。平地に建てられていたものが、過去に流出土砂で埋まってしまったものである。その後延命地蔵として愛護を続けておられるが、現在のお堂は、昭和58年に建てかえられた。(心斎橋錫半社長等協賛者)

現在の地下下

現在の萱尾の道(星田7丁目〜南星台のバス道)

小松寺参道と萱尾 平安〜戦国時代
山中の小松寺への参道は、傍示川沿いに進むルートと妙見川沿いに進むルートがあった。前者は萱尾八丁の坂道ルートでほとんどの人がこの道を使った。(各ルートの詳細については、星田里山古道探索を参照ください。)すなわち、地下下から現在の傍示川(正式には、地獄谷川といった。つまり、星田新池の方から流れてくるぼって川と南星台4丁目のほうから流れてくる地獄谷川が地下下で合流し、合流後の下流のみを傍示川という。)にそって南星台4丁目まで行き、現在の大阪電気通信大学のグランドの西側の谷道から途中で尾根道を登るルートである。地下下から、現在の南星台4丁目の間の傍示川に沿った細長い小字を萱尾といい、この辺は,葦が生えていて昔の茅葺家屋の萱を採ったことから萱尾とよばれた。
また、萱尾に接した初頂、八ヶ畳谷は。このあたりは、小松寺から丁度八丁あり、八丁がなまった地名である。南北朝期から戦国時代にかけては、小松寺は、小松城とも云われて、地方豪族の居城としての色彩を強めていったが、この萱尾の道は、鎧を着た武士が往来したことから、鎧阪と呼ばれる坂ががあった。

地下下(じげげ)                      〜平安〜江戸
星田新池の水は、傍示川に流れ込んでいるが、そのあたりの小字名を地下下といった。星田新池の築造は、明治の後期であり、それまでは、現在星田新池の東側に流入しているなすび石の谷と西側に流入しているぼっての谷が合流し、ぼって川となり、傍示川に流れていた。昔のはげ山の星田の山では、このように星田新池の無い状態で、降雨時を考えれば,不しを(傍示)川荒れ、の最も厳しいところであったと思われる。
明治の初期には、家が1軒もなかったところであるが、過去の歴史をさかのぼれば、いろんな史実や話題が残っており、傍示川荒れのもつ自然の力や栄枯盛衰の歴史に流されたところである。
地名解説では、地下下の西北隣の楯石は、館石で昔の豪族の城(館)が建っていて、地下下は、その配下の村人が住み、白水、旭、布懸,御農あたりに耕作にでていたのではないかとしている。
小松寺(江戸元禄期に廃寺となった山中の寺)の盛期には、小松寺への参拝客や坊僧相手の日用品を売る店が並び、また小さいながらピンクゾーンもあったという。次の歌が残っている。
地下下の比丘尼(びくに)の色香に迷よて、すってんころりの山法師
江戸時代、地下下に源姓の星田次郎右衛門という武士が住んでいた。この武士は、星田出身で、7歳で11歳の豊臣秀頼に嫁いできた千姫の取次役で元和元年〔1615年)の大坂落城とともに、千姫について江戸に帰ったとされる。その屋敷跡は、畑で7〜80坪であった

小松の地は,北寄りの尾根筋(馬木の嶺から北谷)を残して、四條畷カントリークラブとなっている。小松寺の遺跡は現在その尾根筋にある北の小門跡だけであり(右の写真)、寺の主要部分があった小松山は、その尾根筋からコース越しに見えるだけである。なお、小松山の東側にあたる、ゴルフ場9番コースのティグラウンドのそばに、小松寺之跡の碑(左の写真)が建っている。

戦乱と星田     南北朝〜戦国〜安土桃山
星田は、南北朝時代には、河内は、南朝方の拠点であり、自身が戦場になり、頻繁に戦が行われた。群雄割拠、下克上の戦国時代になると、河内守護代で私部城主の安見直政が地方豪族として、力をもたげ、また河内国守護職畠山高政,飯盛城主の三好長慶などの地元の豪勇達が長期にわたり、繰り返して戦を行い、地元の郷士,武士、農民を戦に巻き込んでいった。また、山中の小松寺(廃寺)は、鎌倉時代以降は、山城の性格を強めていき、軍事拠点ともなっていった。明智光秀が織田信長に謀反を起こした本能寺の変の時は、徳川家康が丁度堺にいて,潜みの藪で星田の歴史に登場し、豊臣時代の大坂夏の陣では、星田が出陣の地になって、戦の舞台になっている。このような度重なる戦の歴史を経てきた、星田の村人は、結束を強め、村全体が砦であるかのような町づくりをしてきた

上左 妙見さんの石(2つのうちの1)右上名所記の描く光林寺 右下 星の森

小松寺(こまつじ。廃寺)平安〜江戸時代
創建は、空海、伝教大師による庶民信仰が始まって(803年)少し経った845年に,四條畷市との境界に近い、小松の山中で、当時、星田の山一帯は、樹木が1本もない荒涼たる岩砂山であったことから荒山寺と名づけて建てた寺が始まりで,、宗旨は、真言宗東寺派で、その概要、規模は、金堂(本尊弥勒菩薩。),根本草堂(十一面観音ー現在星田寺にある交野市指定文化財。)、三重の塔,宝蔵、経蔵、講堂、鐘楼、食堂、毘沙門堂、南の大門(正門)、西の大門、北の小門、坊舎67宇,僧衆120人、児童38人,大小26谷、大道3、小道5と言う大規模なものであった。(続群書類従、小松寺縁起)。一方で浄土宗など鎌倉仏教が盛んになり、この寺は、人里遠いところに立地しているため、宗教としては衰退していくが、別名を小松城ともいはれ、山城としての軍事的要塞の機能を高めていった。そして江戸時代の元禄期に廃寺となった。詳しくは、星田里山古道探索を参照。
新宮山(八幡宮、愛染律院と徳川家康旗掛松の碑)
     鎌倉時代〜
現在星田公園になっている新宮山は、南北二段になっており、南の高いところは、星田を含む三宅郷が岩清水八幡宮の荘園になった後、鎌倉時代中期頃に荘園の鎮守のため、岩清水八幡宮から分霊して造られた。北の低いところには神宮寺である愛染律院が建っていた。明治初期に廃社、廃寺となり、現在石塔(1309年)、宝篋 印塔(1615年)が残っている。また元和元年(1615年)の大阪夏の陣で徳川家康が松の大木に軍旗を掲げた「旗掛松」は、現在枯れてないが、「旗掛松の碑」が建っている。
降星伝説と八丁三所(星田妙見、光林寺、星の森)         平安時代
平安朝の嵯峨天皇の弘仁年間(810〜824)に、弘法大師空海上人が、河内の国私市の観音寺で虚空蔵菩薩求門持(ごくうぞうぼさつぐもんじ)の法を修められた。すると、その法力によって、その夜、山の手に佛眼佛母の光明が輝いた。そこで、夜明けにってから山に登り、獅子窟寺山の吉祥院にある岩屋に入って,仏眼尊の秘法を唱なえた。すると、七曜の星が降り、それが三つに分かれて落ちたという。この霊岩に七曜星の影向(ようごうー神や仏の姿を現すこと)せられるのを拝まされて、妙見宮を七曜星をまつる霊場とされたと伝えられている。七曜星とは北斗七星のことであり、北辰星というのは、北極星である。北辰星について、桓武天皇や嵯峨天皇が一般民衆が北辰祭を行うことを禁止する令を出している。弘法大師は、禁止されていない北斗七星を祀ったのであろう。真言宗の北斗七星の信仰は、人間は、その生まれ年によって七星のいずれかに属しているので、その属性を祭れば,災いを避けて幸福を求める現世利益を受けるとされている。(かるた「星田妙見宮」より。)
八丁三所
星が降った星田妙見,光林寺と星の森は、丁度三角形の配置にあり、それぞれの距離が八丁(900m)であることをいう。

愛染律院跡小高い樹木に覆われたところは、八幡宮跡

八幡宮跡の石塔(左側)と宝篋印塔(中央)

愛染律院(名所記)

旗掛松の碑

旗掛松と後方の八幡宮(名所記)

星田の里歴史探索
南の庄と北の庄   鎌倉、室町時代〜
星田の古い村落は、南寄りの山手と北よりの稲作地の2つに分かれ、南北2つの庄を作っていて、両者にそれぞれ領家がいた。前者の山側の領家は、星田神社周辺の和田家(後に和久田と改姓。東和久田家)、であり、後者の北の庄の領家は、平井家で、広範な稲作地帯を領地に納めていた。和田家は、鎌倉末期には、山中の小松寺(廃寺)、の住職や妙見宮の別当職などを一門から送るなど、その力を強め、平井家は、もともと坊龍あたりの稲田は、八幡宮の御料地であり、年貢の取立てや、自身が八幡宮寺領荘園の荘官や新宮山八幡宮の別当職を兼ねていた。南北朝時代は、河内は南朝方の拠点であり、双方南朝方で戦っている。
岩清水八幡宮の荘園になったかっての三宅郷(屯倉)    平安時代〜
天皇の御領地であった三宅郷(屯倉)は、大化の改新(646年)によって、日本国中全ての土地は、天皇家の土地という事になり、天皇の御料地というのは、事実上消滅していたが、その後荘園制度ができて、再び私領化が進んでいった。天暦3年(949年)、かっての三宅郷は、茄子作,郡津、私部、寺、森、私市、星田の範囲で、岩清水八幡宮の荘園として復活した。

名所記が描く中川に架かるはすかい橋。前方の塔のようなものにおふれなどが貼られた。橋の前方は、西の村の道で、樹木は、慈光寺のもの。

新田開発と新田集落
妙見川の左岸に沿って垣内、上垣内、外殿垣内と垣内のつく地名が続く。垣内とは、開墾する場合にする縄張りや垣を結って囲うことである。いわば新しい開拓地のことである。このように村人の努力と灌漑システムの進歩によって、水田や畑作の開拓が南に進んでいって、さらに中川の右岸にあたる中水道に進んだ。扇状地ではなく、丘陵地の先端にある冨士ヶ尾(小字名)では江戸時代の元禄期には水田が作られている。このように農耕地の開墾、開拓が進んでいくと、村が大きくなり、移住する新田集落が必要になる。其村は、星田の外の村として、妙見川の堤防あたりに作られた村である。
別説として、星田牧を興福寺の円成院の荘園として寄進した時、荘園を耕作する農民が移り住んだ村のことという説もある。
外殿垣内の外殿の語源については、別項の徳川家康出陣の後、大坂方を破ったことを記念して垣内が造られたが、それを外殿垣内と名づけ「とおのかいと」と呼んだ。
星田村落の中心 
 慈光寺の東側の道が中川に架かっている橋をすじかい橋といったが、この辺におふれなどの掲示板があったので札場ともいった。また、ここに戸長役場があって、村の政治の中心でもあった。ここを中心に北村、艮(うしとら)村、東村、坤(ひつじさる)村、西村、乾(いぬい)村としてその方位が村の名についている。しかし南村はない。星田の氏神である星田神社、星田寺があるところが南村にあたるが、神社、寺で集落形成していなかったから向井といった。(お向かいの意)星田の場合、昔は、村人は村の中に集中して住み、外部からは人を寄せ付けず、町づくりは、一種の迷路のように、細い道路、T字路やカギ型の辻、曲がった道などで村の結束と敵の侵入防止を考え、お城のような道づくり町づくりをしている。(西の村の道参照).
この中川周辺の村の中心部の村落の形成の時期については、乾の里(乾村)、野辺の里(千原)、金堀の里(梶ヶ坂)などの古い地名の呼び方が残っている。〜の里は、奈良期の集落に使われた呼び方であり、ここらでは、すでに奈良期に集落ができていたとされる。(西井氏解説)

(注)北村ほか方位のついた村名は、交野市史にも記載の通称で、公式には、上村、堂坂村,辻屋村,小北村、中村、西村,下村が使われた

西の村の中心、紐谷、中川周辺
傍示川周辺の御農、布懸、玉江などの低湿地でも、水溜り農業の形で可能な限りの水田開発は、当然行われていたことであろうが、紐谷や白水は、傍示川、や妙見川と楯石、平野という、丘陵地を挟んで、その間にできた谷間である。これらの谷は、小さくて、浅いため、洪水を起こす心配が少なく、そのうえ、水が湧水であるため、きれいである。この谷筋は、管理がしやすく、集落を形成するのにも、水田を営むのにも非常に好い条件を備えていたと思われる。だからこの谷が開けるところに星田の村が最終的に立地したということである。紐谷の下流が全現堂池であり、中川であって、中川沿いが開けていった。御農、布懸、玉江などの低湿地は、星田大池の完成をまって大規模な稲作が行われるようになるのである。
星田牧と興福寺の円成院の荘園 平安時代
平安時代の末期に、飼育していた牛馬が病気で大量に死んだが、その頃、淀川の大洪水があり、淀川の向こうの三島郡上牧の為禰牧(いねのまき)の牛馬を移して飼育することもあって、星田牧は、この為禰牧の傘下の福牧に属していたが、税の取立てが厳しく、属地扱いされることなどから奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園として庇護を受けることとなった。
荘園の境界傍示川    平安時代〜
傍示とは、もともと目印のことで、荘園の境界は,普通、杭、石、札などがたてられたが、星田牧の荘園の場合、川を境界とされ、それで傍示川と呼ばれた。
星田の村落の形成     奈良時代〜
東の村と西の村
星田では、村落の中央を流れる中川の東側の東の村と中川の西側の西の村では異なった発展をとげてきた。
東の村では、天野川は、磐船渓谷を出ると急に幅2kmの扇状地や平野を形成し、ゆったりとした豊富な水と肥沃な土が、豊かでおいし稲作をもたらすとされているが特に妙見川と天野川が合流点以南、以西は両川などの扇状低地、後背湿地であり、水に最も恵まれた有数の良水田であった。
弥生遺跡もあり、弥生時代からすでに稲作が行われていたであろう。また、森の木、天野川(小字名)なども奈良期の大化の改新では、条理制が施行されていて、古くからの水田である。他方中川以西の西の村については、星田の山は、現在は、樹木が繁り、南星台の大きな砂防ダムや星田新池の築造でなどで、傍示川や妙見川は、余裕のある流れを保っているが、昔は、山は、はげ山で、花崗岩からできた岩石は、風化が激しく、土砂の流出も多いため、傍示川や妙見川では、天井川をつくったり、降雨時にはしばしば氾濫を起こしたが、その被害を受けたところは、不おし(傍示)川あれと言われた、他方、日照りが続けば、すぐに川は干しあがってしまうので、西の村の地は、農作特に稲作には不適な地であって、そのため,牧場に使われてきた..。

長谷古墳  久保池の東、コモンシティ星田の散策道の北側にある。

妙見山古墳の残存部

三宅山(天皇の米蔵の屯倉=みやけ)

古墳時代
敏達天皇(572〜)の頃,蘇我馬子と物部守屋が対立して、互いに勢力を争っていたが、皇后が亡くなり、馬子は、自分の姪で,欽明天皇の皇女である豊御食炊屋姫を新皇后にすることに成功した。守屋は、その対抗手段として、天皇が新皇后のため御領地を求めていたことから、祖先以来経営になる沃野で土地、住民も良い河内平野の土地を提供した(古事記,日本書記)。これを私部(きいさべ)といい、茄子作,郡津、私部、寺、森、私市、星田の交野の1,488町歩の地を含んでいた。その後皇后が、推古天皇となったため、皇后の御料地は、天皇の御料地(三宅山といった。)にもなり、私部(きさいべ)が三宅山にもなった。星田の山中に845年開かれた小松寺(廃寺)が創建されたとき、三宅山荒山寺と云われたことから、屯倉は、星田にあったなど諸説がある。

星のブランコの右前方に高くそびえている峰が哮が峰

妙見山古墳             古墳時代
妙見山から東に延びていた峯続きの最高地点(標高162m)で宅地開発中に発見された。(昭和43年)東に天野川と磐船街道、北に交野が原、西に20m低いところに小松神社(妙見さん)をそれぞれ見下ろし、遠くに淀川や北摂の山々が眺められる眺望抜群の地にあった。既に半分は破壊や発掘が行われていたが、勾玉、ヒスイなどの玉類や鉄鏃や刀などの鉄器と遺物に付着した朱などが発見された。幅は、4m程度、残存長も4mぐらいで、破壊されている分も含めて7mぐらいではなかろうか、正式な長さは判らない。古墳は、4世紀中頃の造営と認められ、天野川、磐船街道を支配していた交野物部氏の首長を葬ったものであろうか。

哮(たける)が峰と降臨伝説

府民の森星田園府地の星のブランコの東側の哮が峰は、饒速日命(にぎはやひのみこと)が高天原の天照大神の命を受け。神器を持って、磐のような頑丈な舟に乗って降臨し、移住した所とされている。(平安時代の”先代旧事本記”=せんだいくじほんき)。この磐の舟は、磐船神社のご神体の巨石である。饒速日命は、物部氏の祖先で、物部一族は、交野一帯の稲作文化の普及・発展に大きな役割をはたした。饒速日命は,磐船神社の祭神であったが、平安期からは、祭神は、住吉四神に変わっている。

旭縄文住居遺跡     縄文時代
星田新池は、明治42年から2年の歳月をかけて築造された。それまでは、現在星田新池の東側に流入しているなすび石の谷と西側に流入しているぼっての谷が直接合流し、ぼって川となり、地下下のところで,傍示川に流入していた(厳密には、南星台から星田新池に合流するまでの傍示川の上流は、地獄谷川という。)。星田新池の土手築造の土砂採取のため地獄谷川近くの山(現在のきんもくせい老人施設の南側にあった。)を削っていると、縄文住居遺跡を発見した。縄文中期(4000年程前)のもので、比較的川に近いところで、東西20m、南北10mぐらいの川より2mほど高い場所で、10数個の竪穴式住居跡が発見された。また木炭に混ざって小鳥や獣類の骨が発見された。また、同時に中国の2000年前の「貨泉」が貝殻に入って発見されたが、この貨幣は、わが国でも10個ぐらいしかない珍しいものである。星田新池周辺から、縄文時代の土器や石器など数多く見付かっているが、大阪市立博物館に寄贈されている。星田新池周辺の出土品で珍しいもので、素焼きの底の尖った小さな土器に入った数十枚の和同開珎が星田新池の南側の早刈の丸く半島状に突き出たところで、発見されたことがある。

弥生遺跡                    弥生時代
今から2,300〜1,700年前の600年間の遺跡である。
農耕が始まったが、人工的な灌漑などの水利ではなく、自然にある水を利用することから始まった。
星田の遺跡は、坊龍、中水道、森の木、星の森、新宮山下、大谷新池など水利に比較的恵まれたところで随所に見られる。中国では統一国家が既にできていて、鉄器や青銅器を使っており、わが国とのカルチャーギャップは、大きいが、人が住んでいたり、稲作が行われているところでは、サヌカイト石器や土器などはかなり使われていたと思える。
新宮山下遺跡  星田神社、星田寺のある台地と新宮山に挟まれた中川の水の豊富な谷筋は、最も早い時期に稲作が行われていたとされていたが、そのとおり、石鏃2点と土器片1点が発掘された。
坊龍遺跡(中期末〜後期) 土器片は少量であるが、石器は、すべてサヌカイトからできており、打製の石鏃および石錐がある。弥生時代には珍しく無柄鏃が多い。また柳葉型や紡錘型もあり、すべて粗製であるが、大量である。「稲作地としては広くて、最適地であり、他部族と絶えず耕作地の争奪戦が繰り返され、そのために粗製の大量の石鏃が使われた。」と思える。  

現在の布懸

布懸遺跡           旧石器時代
NTT社宅は、1万5000年前の刃物製造工場。傍示川沿いは、古くから古代人が住んでいて、旭小学校の西側のNTT社宅の建設中に、旧石器時代の1万5000年前の石器130点近くが発掘されている。