星田牧と奈良興福寺別院円成院の荘園
星田の山は、1〜1.5kmの短い河川流域で、高低落差が100〜200mと、河川の勾配が大きく。流入域に禿山が多いまた岩石が花崗岩主体で土砂の流出が激しいなど河川管理上特に難しい条件を備えているため、傍示川や東川(妙見川)では。河川の管理ができない時期が長く続いた。(星田新池の完成は、明治末期その後各地に防災ダム、遊水地などの防災施設ができる。)、このため、大量の土砂を上流から運んできたり、天井川を作ったり、たびたび河川の氾濫を起こし、江戸の地図でも傍示川あれ、東川あれといった被災地が地図に描かれている。星田の土地(中川以西の土地のみ、中川以東の天野川流域は、良田)は、水田、耕地には適した土地とは言えませんでした。
星田の語源を乾田(ほしだ)といわれるが、この河川の管理が遅れていることを言っているのです。このため星田の中川以東の土地は、牧場(星田牧)として使われてきた。
平安時代の末期に、飼育していた牛馬が病気で大量に死んだ。その頃、淀川の大洪水があり、淀川の向こうの三島郡上牧の為禰牧(いねのまき)の牛馬を移して飼育することになった。星田牧は、この為禰牧の傘下の福牧に所属していたが、税の取立てが厳しく、属地扱いされるので、奈良興福寺別院円成院領に寄進し、その荘園として庇護を受けることとなった。 傍示川は、この荘園の境界である・
門の木(森の木)地蔵
中川に沿って 北に学研都市線の高架をくぐる手前の藤が尾団地へ向かう道と交差する少し手前にある地蔵さん。精霊送り、精霊向かえ、仏事のお供えや廃棄物の処理など特別の役割をもっている。昔は、5体の仏が並んでいた。
星田寺の境内から多数の阿弥陀さん発掘
これは、明治初年の廃仏稀釈の折に、壊しきれずに、官憲の眼を盗んで十数体の星田寺の竹薮(当時)に埋めたものであろう。写真のとおり、星田寺でまつられている。
六路の地蔵さん六路川(地蔵川)の川床から見つかる。
星田駅一帯を六路というが、地図の可所川は、現在は溝ふうの川で。この川を六路の川あるいは、地蔵さんの川ともいっていた。この川床から西を向いた左側が地蔵さん右側が阿弥陀さんの双体仏が埋もれていた。しかし現在の場所ではお参りできない。
藤尾地蔵 妙見口の交差点付近は、昭和39年くらいまで天井川になった妙見川の下をトンネルで通行していたが、当時土手の上の藤の木の下におられた石仏群は、平面交差になってもそのまま交差点の南東の角付近に鎮座している 下右の写真は、天井川の妙見川
妙見山南の墓地の古代地蔵
光明寺真言墓の鎌倉阿弥陀仏
薬師寺の鎌倉地蔵(中央) 古代地蔵でもある。
鎌倉時代の仏と古代地蔵
古い仏達である。古代地蔵は、交野市で、上記 2 地蔵と私市共同墓地の弘安地蔵を加えて3体しかない。
星田の地蔵さん、阿弥陀さんの石佛信仰
星田では大師信仰とともに地蔵さん、阿弥陀さんなどの石仏信仰も盛んであって、随所で祀られていてその数は,400体を越える。石仏には、右手に錫杖、左手に宝珠をもつ地蔵菩薩と右手を上、左手を下にしている阿弥陀菩薩の2種類がある。、また地蔵菩薩の中で右手に錫杖を持たない古い形式の「古式地蔵」と呼ばれるものがある。星田では、ほとんどが阿弥陀菩薩である。
石仏についての話題を拾ってみる。
年中行事の中で、四月二十一日の大師講が13の祠で務められる。この日は、町内各家から2〜3合の米を集めて「つくたん(大きな握り飯を黄な粉の上に転がす)」を作る。祠のお大師さんをお参りした者はもらえた。ほかにも信仰者から色々なものが供えられた。南無大師遍照金剛とお祈りする。小学生は、昼に食事に家に帰らずにつくたんを食べて学校に戻った。明治から大正にかけて特に戦前は、行事が盛んで、下(寝屋川市付近)の大師講の人達が薬師寺などで、ご詠歌を上げて、その帰りに信玄袋につくたんやお土産が入っていたという。帰りがけ妙見川原の葉桜をみるのが,年中行事になっていた。
このお世話は、4ヶ月位に廻ってくる年行事(3〜4名)で世話をした。町内の人は、年行事の家でお酒や会食をよばれた。
小松寺(廃寺)の堂跡は,4軒でもっていった。正月の朝堂跡で金の鶏がなくといはれている。(この鶏を「たいこ」という。このたいこの分も含まれていた。またたいこに正月堂跡にもちを供える習慣があった。また、四月以外の各月の21日のお花替えが行われた。
お厨子の屋根に塵がたまるより、より信心の厚いところでまつってもらおうと「たいこ」という祠を岡山のこうやに貰ってもらったら、その家では、家族の方につぎつぎと腹痛がおこり,滝谷不動さんでみてもらったら、この時の仏替えが原因とされ、たいこに帰っていただいたら、不思議なことに収まった。中風の人が死ぬまで信仰をはっていた。などこの信心にまつわる話題も多い。
星田にお大師さんの祠が多いのは、星の聖地が3箇所もあり、村が大きいことなどもその一因であるが。星田には力の強い家が多かったので、誰かが始めると、対抗して追随者が出てくるといった風に増えたことも考えられる。
また、星田で大師祠がおおいのは、「お大師さまのお堂を建てますので私にお金をためさして下さい。」というお願いをすると金ができて家が建つという信仰があったともいう。
上口町大師堂
乾町大師堂
野辺橋大師堂
松岳庵大師堂
半尺口大師堂 もと東高野街道の一里塚にあったものを移設
星田の大師堂 (町内で管理されているもの)
1 野辺町 2 東辻屋町 3 西堂坂町、東堂坂町 4 上口町 5 札の町 6 東小北町 7 東畑所 8 西乾町、東乾町 9 半尺口上町、半尺口下町 10 西中小路町
11 大谷の入口 12 大谷の出口 13 慈光寺 14 光明寺 15 星田寺
星田の大師堂と大師講、お大師さん
星田では昔から24町あるがこの町内で管理している大師堂は、15の祠がある。それぞれに大師講がある。ほかにもお寺や個人の家でもまつられるお大師さまを加えると、28ある。
先現講
妙見河原は、広場でした。毎年一月十五日に桜の「肥えおき」をしてました。 今日全現堂の先現講の日でした。昭和二十八年頃、講員は、十二軒でしたが現在は十軒ぐらいです。この神様は、仏さんと神さんを一緒にしたようなものですが、どちらかというと神さんが少し勝ってはります。私たちは、南無光現大日如来と唱えています。八月五日道づくりをして、池の中で竹で囲いをし行場を造りました。朝昼晩講員が全現堂に行っては、交代で行をし、お祭りしました。八月八日は、「ともしみ」の干灯が上がるんです。命日は、毎月十六日です。終戦までは、毎月本尊を当番の家に持ち込んで講中が集まってお勤めしていました。今では講員が順次全現堂に行ってお祭りをしています。大日さんは、農家で往時の組織は、
若中(青年団) 東組と西組の2枚の連名板(2尺×5間半)があり
総社長(1名)ー周旋方(2名)−中老(十名、若中が済んだ人)ー五人(二十四〜二十五歳)−世話人(二十〜二十一歳)−ひら(十五歳〜十八歳)の氏名表、になっている。十月十八日ごえん祭(秋祭りが済んだ翌日。)の当日は、どこの耕作地からでも「どろ芝芋」二株はとっていいことになっていて、芋飯を作った。明治四十五年ごろ若中の組織は無くなった。(総社長をするのに割木十駄(一駄は40四〇メ)、漬物一丁、醤油二斗が必要とされ、引き受けるものがなくなったため。)
妙見講
講は十軒ぐらい.十二月三十一日、二升と一升の重ね餅をお供えした。
観音講 大正の終わり頃は、二組あった。毎月の十七日に当家の座敷に観音さん、お大師さんの掛軸を掛け観音経をあげた。毎年二月十七日には、「数珠くり」をした。数珠くりの最中、数珠が体にあたると、おおきにと言って拝んでいた。大講(おおこ)が星田にあたると、慈光寺で上げた。枚方の方からも請負が集まってきた。昭和四十年頃解散した
伊勢講
うお菊の近くのうち政(昔はうじ政といった)は、講元の家であるが、「太神楽」がくると狭い庭であったが、講元に敬意を表し、半日くらい芸をみせてくれたという。
井戸講(いのこう)
自然石が積まれある直径2.7mぐらいの古い辻井戸(ついど)があった。加門町の13軒ぐらいで、辻井戸の管理をしていた。昭和四十年のはじめぐらいまでいの講は盛んであった。
8月7日朝から講中の者で井戸掃除をした。井戸浚えを終わると、お神酒,塩,荒米をお供えした。晩に各家から米二合を持ち寄って、当家で煮物,鶏のすき焼きで会食した。
稲荷講(高岳稲荷)
講に入っている家は、50軒はあるだろうか。二月の初午の日、赤飯の「もっそ」をつくって草原などで廻る。講中の者は、味噌のお汁で会食する。講には講田もあって余得もある。十四〜五軒で組を作り、当番の家が初午の準備、会食等に当たっている。
名月を星田新池で見る会
午後六時半 星田新池の西側に陣取ったところに総勢四十八名お月様にお供えする餅は,閏年なら十三個、普通の年は,十二個、独身者が月見餅を食べると縁がおそくなるという。
月見の晩だけ、子供にはお供え餅を取って食べてもいいと許される。 おかずは、泥芋、厚あげ、コンニャク
花たてには、萩、すすき、くず、おみなえし、ききょう、ふじばかま、なでしこ
鎌倉墓(妙見南の墓地)の地蔵盆
八月24日に行われ、午後二時ごろがピークです。地蔵さんの真っ赤なよだれかけが美しい。ある四婦人のご配慮によるものです。
秋祭りに現在でも残ってる宮座の提灯
星田神社の宮座
村の集落全体の総寄合といえば、氏神の祭礼である。神のまつりごとと村のまつりごとは、同音でどちらもその土地の有力者である主権者や神主が、地域の実情により祭礼を取り仕切り。また祭礼の場に参列し、神前でお供えものを分けたり、お囃子などの出し物の観覧したりするには歴代重ねられてきたルールがある。
各宮座の位置が神殿に近いほど格が上で、決まっている。また、各宮座の中でも座る場所に順位がある。宮座加入は、いろいろ資格要件があり、だれでも加入できない。宮座に加入していないと神輿がかつげないなど排他的な階層・差別制度であり、封建社会そのものである。
西居間座
XXXXさんの家に宮座の箱が回っている。(昭和50年)
西居間座の箱拝見する。
横26cm、縦30.6cm
現在七軒 大正十一年十一軒 元冶元年 十二軒であった。
昔は星田で十二座あった。大体六、七軒で座をつくっている。
十三仏
初7日から33回忌まで13回の仏事の仏と菩薩を刻んだもの。総高145センチ。生駒山系に集中し,大阪府下で29あるが、交野市では、ここのみ。大阪、堺市にはない。
慈光寺のお盆
八月の七〜九日の間に寺から2枚,新仏のある家は、3枚の塔婆をもらって、2日間程家の仏壇でおまつりする。十日あるいは十一日には塔婆と花,線香をもって、1枚は、寺の十三仏か檀徒墓に、もう1枚は施餓鬼棚にまつり、24日の施餓鬼で供養してもらう。新仏のある家は、星田や私市などで独特に行われていた棚を組んで精霊流しなど初盆行事を行うがそこに1枚を供える。棚やお盆の精霊送りのお供えものなどは、門の木地蔵で焼却など処分された。
星田大池の樋上げ
この日は、5月中のお不浄日で、最も悪い日である。この悪い日に樋を上げて水を出していたら、これより悪い日はないので、年中適当に雨が降って星田大池から水を出すことがなくなるという趣旨でその年の米の豊作を祈る日でもある。おまつりをする場所は、星田大池の西北、高岡大神(高岡稲荷)の前である。高岡大神の南の小径を登ると、高崎大神,吉高大神と彫った石があり、さらに登ると、東に面した石に高岡神社と彫ってある。
その日の参加者は、水利組合の人13名が正面に鯛と野の幸をお供えしてお祈りをした。続いて、昔は、そのまま樋を上げたようであるが、今は、形ばかりの行事で、「樋守り」と水利係で運営が始まる。
星田大池の碑 北側の堤に立っている。安政2年に一度決壊しいている。星田小学校の校庭の三本松を流出した災害などその後改修を重ねられたが、昭和43年10月から46年3月にかけて、大改修工事が行われその時に碑が建てられたた。
山中の小松寺(廃寺)の黄金伝説
正月山中の小松寺(廃寺))で金の鶏が鳴き、夕方夕陽が沈む頃、一条の光のあたる先に,黄金一千枚が埋めてある。
東枚方街道
星田1丁目と藤が尾5丁目の境界あたりを始点として、神出来(かんでら)の交差点の少し南側で枚方富田林泉佐野線と交差し、枚方に向かう道である。最近拡幅された香里団地の手前で星田から高田(こおだ)を経由して来た道に合流する道である。
JR片町線(学研都市線)の前身である関西鉄道(当時民営)は、明治31年に開通したが、京阪電車の開通は、12年後の明治43年であり、当時の枚方の人が大阪にでるために、乗り物を使うためには、星田か津田に出る必要があった。そのための道であり、当時の枚方からは、枚方ー田井−住道ー八尾に至る幹線の枚方街道(古くは、河内街道といった。)があり、その東側を通る道であるので、このように呼ばれた。
最近周辺に住宅が建ちコンパクトに整理された。
地神社(じじんしゃ)
中川通りの慈光寺から北(藤が尾の方向)に行き、次の東に入る道を10mほど行ったところにある地神社は 先祖をまつるお宮さんではないかとされる。 昔この付近を歩くと繁みで薄暗かった。大正のはじめ頃は、こわかった。この付近で葬式があると石段の上にしめ縄はってます。昔からの伝承です。