語り部の星田その1へ
表紙に戻る

島田の田(偉い人の墓)

臨港製鉄の社宅の南にある田は、島田の田というが、その田の中央から南の土盛りは、武士の墓であり、耕したらばちがあたるといわれている。交野・星田(ほいさ)郷土史かるたウォークでは、偉い人の墓といって鳥羽伏見の戦いで死んだ人の墓としている。

下の写真は、社宅側からの現地写真右端は、交野市農協.
右の写真は、簡単な土盛りと花を飾って今もまつられている。

上左は、迎え地蔵(左側)墓の入り口に北向きに建っている。錫杖は、肩から上が消えている。眼も口も左頬にかけて摩滅している.至って重厚。左端に五輪塔の水輪が1個だけある。西側の石仏たちは、墓の南側の河川の改修工事等で川底から掘り起こされたもの。上右は、六体地蔵と左側に板碑形阿弥陀座像..下の写真は、板碑形阿弥陀座像の拡大写真

テキスト ボックス:
テキスト ボックス:
星田墓地の石仏
テキスト ボックス:
テキスト ボックス:
テキスト ボックス:

小なべ橋(墓の前橋)

中川から流れてきた川は、墓地に沿って南方向から西北に進路を変えるが、墓地の入口のところにある石橋。「墓の前橋」、「明治37年7月」と彫ってある。この橋は、東高野街道(当時星田では、唯一の府道。)の一部で,橋は、当時上の橋、下の橋(これらの橋は、私市道あるいは私部道で天野川にかかる橋。)など一般里道の橋では、木製であったが、この橋は、唯一石橋である。

新仏道しるべ地蔵     現在星田墓地の入口にある地蔵さんであるが、昔星田からの葬列は、中川の堤を北に下って、当時あった川尻の池の手前から西に折れて墓地に行ったが、中程で北から南西に向う東高野街道と交差したが(現在は、臨港製鉄の敷地内。)その辻に建っていたもので、臨港製鉄建設の折に、ここに移されたのであろう。この石仏は、昔は、北面していて、よく牛がつながれていた。現在の地蔵は、額と左眼あたりに傷あとがある。鼻も口もない。肩幅(15.5cm)が広く,裾幅も同じ(15.5cm)腰周りが少し細めで美しい。慈光寺の双仏石とよく似ている

川尻の池(河童の池) 地図に記載のとおり、中川の下流の池であった。小字名の池田尾は、この池の灌漑する範囲内の土地であることを意味するのであろう。池の岸には葦が生い茂り、水面には、一面に菱や水藻が浮かんでいて、水は常に暗く淀んでいた。見るからに気味の悪そうな池であったとされる。徳川初期の古地図にはすでに描かれている古い池であった。昔から数匹の河太郎(河童)が住んでいて、村人が池堤を歩いていて足首をつかまれたという伝説が残っている。

東高野街道 東高野街道は、現臨港製鉄の敷地の中を通って、敷地を斜めに抜けて、枚方市(茄子作)と交野市(私部西)の境界線上を北上している,従って東高野街道は、交野市内では、唯一この区間だけは遮断されているといえる。
臨港製鉄(北星田4丁目。都市計画法の用途地域は、全域工業区域)は、旧地名である小字名では、南側は、「市の西」、北側は「小奈邊」と「池田尾」の3地域にまたがっている。交野市史の地名解説によると、市の西は、星田牧の牛馬の市場があったところ、池田尾は、昔あった池(川尻の池)の灌漑の範囲を示し、小名邊は台地の先端部で鍋を伏せた形であることがその語源でないかとしている。

臨港製鉄とその周辺の地史