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天保八年星田村絵図

14年絵図によく似ておりぼって川の西は繁山、東側は禿山と描かれている。禿山の文字の右に小松と書かれておりその後方の山を小松山と見た。打上村と集落が書かれており、原資元は打上村かもしれない。この絵図には久保池と打上神社のきさいがあるが満願池の記載がない。
従って満願池は天保8年以降にぼって谷を堰き止めてつくられたのであろう。
天保14年星田村絵図(交野市指定文化財。以下「14年絵図」または「この絵図」という)は、山の部分は原図では山の形が20ぐらい描かれているが、山名などが描かれていない。そのため、明治32年作成の等高線地図に山の尾根筋(登りは等高線がU字型、下りは逆U字型。)を茶色で描き、川谷筋(逆V型)を青色で描き、これに山の名または地名を詳細に描いていて6万分の実測地図である明治初期作成の堺県管下河内国第3大区九番領星田邨萬分之六図(以下「明治初期の実測絵図」という。)から山の名あるいは地名を読み取り作成したものである
半円形水路の上流はJRの高架をくぐっている
半円形の水路の下流側の水路で川尻の池の北から千原、市の西など西の部落に供給した

左の水路は中川左岸のトンネルにつらなっている。

砂田の橋


妙見宮の上の鳥居の妙見川の石橋があった付近の水栓

絵図では妙見川から紐谷川にかけて水路が接近して描かれている妙見川の菖蒲の滝の下流にかかっていた十方橋(付近の地名は石橋といったがその語源。近年の豪雨で破壊消滅。)の近くにあった水栓でありこれが原形であろう。。
もともと中川は白水、楯石付近には湧水が多く此の辺の谷筋が源流であったが、この付近から高岡にかけて星田大池が作られたため水脈は事実上なくなっている。その結果現在ではこの中川の水はここからの妙見川の水が主要源流となっている。
妙見川から中川への流路変更ルート(溝
小松山地区
星田山地区




樋(とい)とは,普通、田で用水路から水を引くために田の仕切り枠に木をはめて水位を使って自分の田に動力を使わずに水を取り入れる古来からあるシステムをいうようであるが、これを原型として規模の大きさによっていろいろな形のものが考えられるが、釜田浦の半円形の水路も上流から何らかの仕切りによって円形部分に水を流せば川尻池から千原など西の部落に流れ、直流ルートでは森の木釜田などの東の部落に流れていたのであろう。
暗り尾根道
管理道であるが、この道の右側の山が暗り尾根道で防災用の給水タンクや給水管などが埋設されている。
小判の嶺
府民の森星田園地の星田入り口の柵をくぐると管理道にはいるが、もう少し古い道を昇りつめるとこ頂上に達する
大谷の嶺
高さ284mであり星田全山を通じて一番高いところである。
上の地図は縮尺の小さい2500分の1で山の形が残っている地図を原図(大阪府の航空写真の地図)にして府民の森をGPSで測定して書きいれたものである。頂上尾根筋は太い線で書き入れている。縦走尾根筋は、大谷ハイキングコースと村境との尾根古道で、これには尾根の向うには岩船神社のある私市村も入っていて、外に田原村と逢坂村である。麓から登る尾根道としては暗り尾根道と印揃尾根道で冒頭の絵図の山名の表示と一致する
ぼって川の水栓の後継機
絵図ではぼって川の傍示川と
合流の手前で水栓のよう図が描かれていて、明治初期の絵図では水栓と書かれている。
これは日ごろ細川を通って星
田大池に流れているのが大雨
時は傍示川に流すための水栓
であろう。上記の図は明治末期にぼって川のところに星田新池が作られた星田新池から星田大池と傍示川に流す水栓の後継機である。通常時はコンクリート製の水路を流れて細川から星田大池に流れていくが、大雨の時は樋構造であふれた水は左から傍示川に落下し、場合によっては可動式の栓を上げられるようになってい
一蓋被
比較的平坦な星田山の前嶺にあたり、展望がきくところであり、馬が峯はほとんど見晴らしがきかない。この地点からは谷が麓方向になり3~4本の尾根筋に別れ谷が深くなる。
釜田浦
中川の下流の川尻池の少し手前で天保絵図で川樋が6~7個集中しているところを釜田浦
といって妙音池などのから水はこの付近に流し、流れを東西方向に変える仕組みが
あって、付近から東を東部落、西を西部落という呼称が残っているとされている(西井長
和氏星田懐古誌)。星田には小池、平池など池の名前の地名が残っているが、農乾季
などにはため池などに水を送り蓄えていたのであろう。



大谷ハイキングコース
星のブランコの中央地点から大谷地区の尾根筋をつぎたしワイドで写したものである。この尾根歩きが昔の山の原型であろう。ところどころに大谷ハイキングコースの標識が残っている。先代旧事本紀の真偽はともかく天孫の
饒速日命が生駒の豪族長髄彦と争うべく日南山に陣を構えたという神の時代のロマンが感じられるところである
梯坂道
一番東寄りの道で急坂を七曲りの道を昇る道である。現在はコンクリートの堰堤になっているが明治初期の絵図では滝が2つ道の上下に描かれていて、上の滝は、菖蒲の滝で、ここも滝になっていた。

宗円ころり
宗円ころりとは、室町時代応仁の乱の頃に、小松寺の貫主であった宗円が、険路であるこの場所で、誤って谷底に落ちたが、首にかけていたお地蔵さんのお守りのご利益で一命をとりとめたということが評判になり、この地を宗円ころりと呼ぶようになった。この付近から道は2つに分かれていて1つは妙見川の西の石橋付近へ、長いルートは星田新池と星田大池の間の地下下まで通じていた。

北の小門遺跡
小松山の外にあった唯一の施設北の小門はその基礎石や石積が残っている
小松山
小松山付近は、3層構造であるとされていたおわん型の山と図で描くように並行して走っている尾根筋が西門坂でつながる形をしていた。この想定図は、江戸時代塙保己一検校により東寺の記録を筆写して作成された続群書類従の小松寺縁起によって描いたものであるが
7堂伽藍の大寺で坊舎67宇、僧120人、小僧38人いたという。、
小松寺縁起は、長禄4年(1460年)三重の塔の建設供養会を表しており東寺から観智院住職をはじめ20人が出席していたとされる。
小松山自体は現在四条畷ゴルフ場になっていて存在しないが一部借景として残っていて、図の上部の小松山に並行した東西に連なる茨尾の頂上尾根から絵図の山名の地獄谷尾根道、菖蒲の滝と記載しているが明治32年白地図では6本の麓に向かうアクセス尾根道を描いている
明治明治初期の実測地図の星田山
星田新池は明治末期に傍示川上流の地獄谷川に沿って富士山の形をしていた旭の山が2つ並んでいたがこの山を取り崩し、水門が描かれている付近に堤防を築きぼって川(ぼって谷と茄子石の谷が合流してできていた川)を堰き止めてつくられた。それまでは2つの旭の山とその東側に続く地獄台尾根山西側の逢坂道の尾根が壁を作っていたが、ぼって川の上は壁がなかったので降雨時など水量が多い時は水門で傍示川に流し、平常時は星田大池に流し貯留していたのであろう。天保絵図でも水門はすでに描かれている。なお明治34年の白地図でも地獄谷川にくらべて傍示川の堤防幅が広く書かれていて
傍示川は防災河川としての役割をはたしていたのであろう。
ぼって滝の上流に万願池が描かれているが満願池のことであろう。
満願池の跡地
この付近から頂上に向かう道が出ていて関西電力の鉄塔保守道がある付近で、現在では土砂が天井状に堆積している。また山上の植樹帯から広がった植樹種の樹木が植わっている。
ぼって滝
満願池があった付近から滝の落下音が聞こえる距離のにある瀧である。
星田山頂上馬が峯
頂上は3角点だけで寂しいが頂上は南北にも比較的長く、尾根筋が放射状に出ていて、独立の山として比較的風格のある形をしている。頂上の南側には杉や桧などの広範な植樹帯ができている、

天保14年
夫婦石尾根
久保池の東側に見える山で夫婦石という。これは西から見ると高いところと低いところが見えるが、これを夫婦に喩えて夫婦石と呼ばれたとされていて、この付近の地名にこの名がついた。星田西体育館の近くの久保池からの流出川にかかる橋には夫婦石橋という名前がついている。
坂登山
合峯嶺からすぐにある山である。道は尾根筋を巻いた道であるので絶えず頂上付近を歩いていて道からせいぜい2~3mの高さが4~5個所々に連結しており、その個々が山といはれれば周辺では1番高いのでやまであろう
日高山(逢坂道の頂上)
穏やかな頂上でありそのまま中野村との境界尾根道で下りになる逢坂村へは地図ではそのまま南に進みぼって谷沿いに道が描かれている。

天保14年絵図が描く河川・池・溝(農業水路)・樋(水栓等)
星田農業の水田耕作に必要な水源は古くは中川とその流域に沿って作られた妙音池は鎌倉時代の新宮山八幡の放生池が起源とされ中川の上流の紐谷川沿いの上の池は、江戸初期の地図に新池と書かれていて中の池と今池はそれよりも古いとされている。今池は、昭和30年代に埋め立てられて住宅地になり、上の池と中の池は仕切りになっていた堤防がなくなり1つの池になり、現在全現堂池という名前だけが残っている。

川尻の池は、現在の府道交野久御山線の交通慰霊塔付近にあった池である。河童が住んでいるという言い伝えがのこっていた。
星田大池は、村の記録としては寛永14年(1638年)江戸時代の期には存在していて、星田村元禄絵図では1.3haの最大時の4分の1の大きさの池が描かれているが、ぼって川(星田新池の前身の川)には天保絵図に水栓が描かれている。これは降雨時は傍示川に流し、通常は星田大池に流すシステムと考えられ、明治初期の実測絵図、あるいは明治32年の地図をみても、水栓の放流先の傍示川の堤防幅が広くかかれており、防災を意識しつつぼって川の山水を受け入れる仕組みができており、明治末期になって、完全閉鎖型の星田新池ができることになる。

昔の地名で小字が使われていたが、この小字の境界では里道や灌漑水路が敷かれる場合が多いが、次の図は交野市全図(小字地図)に絵図を合わせて作成したものであるが一部疑問が残るがほとんど一致する。

図では凡例で池川樋、池川境、池川溝を記載しそれぞれ色、形で示している。昔は星田の語源は、干田といい、中川以東は優良な水田地帯であるが、以西は星田牧で牧場に使われてきたとされていたが、星田は広大な山をかかえながら山水を使いこなせない土地であるという印象が強かったが、天保絵図を見てみると、河川間を繋いでいると思われる溝が伸びていて、また樋マークの ・ が随所に見られ水利用のネットワークが進んでいることがうかがえる。



日高山西谷地区
この地区の頂上は日高山で標高260mで麓を久保池とするとその高さ約100mで160mの昇りの山である。西側から南側にかけては打上村,中野村との境界になる尾根筋である。東は逢坂道という清滝街道(現旧国道163号線)の清滝峠付近を逢坂村といったがそこへ通ずる穏やかな昇りの道である。この西側の隣村の境界尾根道の中腹から夫婦石尾根道、日高山尾根から少し下ったところから中央を割く形で中尾尾根道が途中まで出ていて、その山間に西谷が流れていて、この谷水はお盆の中の水のようにすべて久保池に流れている。14年絵図および天保8年の絵図でも各山を繁り山とはげ山に区別しているが、この地区内の山はすべて繁り山で、その他の星田の山はすべてはげ山となっているが、これは、久保池(4つ並んだ池)とその南側の打上神社の池は、打上村の飛び地になっており、池の水利は打上村農民のものとなっているため、上流部の山林の伐採など山全体の管理が他の星田の山と異なっていたことが想定される。
大谷山,妙見川東地区
現在府民の森星田園地が作られているがこの園地はほとんど含まれる地域である。普通山道は、比較的平坦で、歩きやすい尾根道に作られるが、星田園地は一部を除き新道で尾根道以外で作られる場合が多い。明治32年の白地図から尾根筋を線引きして造った本図は大谷の嶺から小判の嶺から哮峯に至るルートは大谷ハイキングコースといはれ随所に案内立札が残っている。暗りは、岩船神社からの管理道の東側に沿った尾根道のことで、印揃は,小判が峯から展望台が牛ヶ鼻から鮎返しの滝に向かう尾根筋である。
top
絵図が現在に残している遺産
星田山と満願池
星田山(現在の星田新池の南に見える山で、狭義の山名。)は頂上を馬が峯というが頂上付近の尾根筋、谷筋が麓方向ではなく、東西に流れているため頂上が馬の背のような形担っていることからの命名であろう。また谷筋も尾根筋と当然並行してはしるが、このため前峯にあたる一蓋被にかけては谷水は麓方向でなく山を東西に挟むぼって谷となすび谷という方向に流れそこで両谷は上流域で比較的大きな谷を作って流れる形になっている。一蓋被から麓にかけては3本乃至は4本の長い麓に向かう別々の尾根筋が出ていてこの一帯は小字地名で割林、早刈といって昔の村民にとって薪や肥料の草木採取などの身近なものであったとされている。
天保14年絵図のぼって川は、傍示川から地獄谷川から分かれて小松にむかうぼって川が1本だけが描かれているが、本地図が描いているようにぼって谷となすび石の谷(地図ではなすび谷と表示)2本の谷筋が合流してぼって川となり、傍示川は、この両谷が合流したぼって川と上流から来た地獄谷川が合流した川である。また満願池は、日高山の逢坂道にあるように描かれているが、明治初期の実測絵図で万願池としているように、拂底滝の少し上流で星田山の前嶺にあたる一蓋被からぼって谷に流れている最も北寄りの谷筋の下ったあたりで堰を作って池にしたのであろう。ここで注目すべきは天保8年の絵図には満願池がない。従って満願池は天保8年から々14年の間にぼって谷に堰をつくって作られたことが考えられる。ぼって谷の万願池から少し下流のあたりに昭和52年建設の表示がある大きな堰堤であるが、早くから流出土砂で埋まってしまって、全く用をなしていない例があるが、満願池も土砂で早い時期に埋まり、明治末期になって大型工事により星田新池が作られたのであろう。







合峯嶺
合峯嶺は、東は現在の星田新池の北側から始まり、西側は久保池の北側に達した尾根筋が東西に走り、これに逢坂道が十文字に交差し、その交差点が高い峯を形成していると、東西南北の尾根筋が集まっていることになる。そのため合峯嶺という名前がついたのであろう。この場所は星田山手のやまびこ広場付近である。大きな尾根筋を切ったところであるので地盤が雨に弱いのでコンクリートで固めているのであろう。
る。



絵図は行政文書が多く、災害をはじめ当時の社会が抱えている問題について課題として現状分析し、これに対する政策を述べているものが多い。例えば元禄絵図では、ほうじ(傍示川)荒れ、ひがし川(妙見川)あれなどの災害の大きさを示しているが、これを単なる被災としてとるだけではなく、この原因となった傍示川や妙見川の水を水資源としてとらえ、星田大池の建設が始まり、これは当時年貢増収のため幕府が進めていた新田開発の重要施作になり、その結果北星田地区に水田地区が広がり、当時の星田の領主は市橋藩、八幡藩、に加えて貞享4年(1687年)に永井藩(後に大久保藩に転籍封)に新たに108石知行されたという一連のストーリーに読めなくはない。ほかにも村内の田畠の全地域について田と畠に区分して表示し水田化の進み具合を表しているが、このことについては天保絵図でもそのまま引き継いでいる。天保絵図では繁り山と禿山で20個ぐらいの山が描かれていて約半分は繁り山で残りの半分は禿山である。しかしその内容を見てみると繁り山は、当時打上村の飛び地であった久保池水系の山だけで、この地域では連続する尾根筋を個々に分け、枝分けした支線の尾根筋も1つの山としてある意味では水増しして半数の山、面積的にも約半分が茂り山として描かれている。傍示川、妙見川などの外の水系の単独の山は全てはげ山でるが、これらは山単位に名前だけあるいは数山を纏めて1つの山として記載されていて、絵図の表示する繁り山とはげ山の表示の仕方には不均衡が見られる。しかしこういう形で繁り山の重要性を表現しているのであろう。江戸中期(天明8年)に星田の吉田屋藤七という人が幕府に治山治水のための植樹の重要性を進言して功績をあげたといはれているが、明治初

期の堺県管下河内国第3大区九番領星田邨萬分之六図(以下「明治初期の実測絵図」という。)では星田の山の様子を描いているが樹木山で目立つのは2個所あり1つは妙見山で縄文の森ともいはれた聖域でり、伐採などが許され
なかったのであろう。他の1か所は明治初期の実測絵図の岩内道(現在のクライミングウオールの前身。)の西側にある小字地名若林

である。この地は現在のピトンの小屋からの登りの隣接した山で、道沿いの谷を越えて幹の太い杉檜などの植林種の樹木がはみ出してきており、山中では樫くぬぎなどの在来樹木と混載になっている。明治初期にも大幅な植林が行われたようであるが、植林種と在来種の樹木の混載がかなり進んでいるのでそれ以前かも知れない。
明治中期には星田山の馬が峯周辺は大規模な植林がされていて大阪府営農林と日露戦争祝勝記念林の表示があり、ほかにも飛び地の形で数カ所で植林帯が見られる。
絵図では外に東高野街道。山根街道などの道路や中川、東川(江戸時代の妙見川の呼称)、傍示川、地獄谷川(現在の星田新池ー当時はぼって川ーからの放流水が傍示川に流入している地点から上流の傍示川のこと。)や中川周辺の池と新規に始まって星田大池、満願池などのインフラが書かれて総合地図の形体をとっている。
古くは、星田の水田は中川が中心
で中川以東に限定されていて、中
川以東は星田牧という時代があっ
たが、高岡山などのやや高い位置
につくられた星田大池は、現在の
星田駅周辺の高い地盤を越えて供
給が可能になり、星田山のぼって
川などに水栓を作って、水源に
持ち、6haの面積を持つ大容量の
池は、供給量を全村に豊富な灌
漑用水が提供できるようになった
が、中川、星田大池に限らず絵図
では各河川沿いに樋をつくり、降
雨時は放流河川に流し、通常時
は星田大池や中川流域の池に流すシステムやこのため河川間を結
ぶ溝を構築して星田の山水を有効に活用する体系を
つくっているが、後段にゆずる。