水田率とは水田の生産石数÷(水田の生産石数+畠の生産石数)×100

上中下ランク指数は、生産石数÷田畠の面積の比率(反当たり生産石数

河内国交野郡星田村の地名別石高・耕地面積・地図上の位置
市橋大和田藩の田畠 同左の畠     八幡藩分 石高計 耕作面積計 市橋八幡 ランク指数 地図の記載 位置
石高 耕作面積 石高 耕作面積 田畠の 同左の推定 領の水田 (上中下) 交野市史全図 天保絵図
小字名 合計石高 耕作面積 化率
池尻  11.5 8.1 0 0 11.5 8.1 100 1.42 池の尻
東原 4.7 3.6 0.4 1 5.1 4.6 78 1.11 東原
にごり谷 16.7 13.3 0 0.1 16.7 13.4 99 1.25 濁り池
ふじがお 24.6 12.2 7.3 6.5 31.9 18.7 65 1.71 冨士ヶ尾 藤が尾
たかい亥の開 1.7 1.3 0 0 1.7 1.3 100 1.31
その村 32 22.9 0.6 0.6 32.6 23.5 97 1.39 其村
中ミそ、中みそ 24.5 18.5 0 0 24.5 18.5 100 1.32 中水道
とうとのかい 6.1 2.1 0 0 9.7 7.8 15.8 9.9 100 1.60 外殿垣内
かいと 0 0 0 0 3.9 3.1 3.9 3.1 0 1.26 垣内
川ノ瀬 2.4 1.7 0 0 2.4 1.7 100 1.41
西の内 13.5 9 5.9 5.9 19.4 14.9 60 1.30 西の内
ほうりょう 1.3 1.1 5.3 4.3 6.6 5.4 20 1.22 東坊領、西坊領
かせう 33.4 21.8 7.6 7.7 41 29.5 74 1.39 可所
もりの木 14.3 10 0.2 0.2 14.5 10.2 98 1.42 東森の木,西森の木
川しり 9.5 11.4 25 13.7 34.5 25.1 45 1.37 川尻
きもん田 51.9 36.4 17.8 10.7 69.7 47.1 77 1.48 鬼門田
かまだ 36.2 35.8 0 0 36.2 35.8 100 1.01 釜田 釜田
一つ松 55.7 54.3 18.4 14 74.1 68.3 80 1.08 一ッ松
のた 87.2 65 0.7 0.9 3.1 2.5 91 68.4 99 1.33 野田
かんでら 20.7 14.2 0.9 0.7 17.7 14.2 39.3 29.1 95 1.35 神出来 上寺
かうけだ 0 0 0 0 3.3 2.6 3.3 2.6 0 1.27
かけひ 0 0 1.3 2.3 9.6 7.7 10.9 10 0 1.09
千原 2.6 1.8 0 0 0.8 0.6 3.4 2.4 100 1.42 千原 千原
地下の内 3 2.3 3 1.7 6 4 58 1.50 地下下
たうの内 0 0 0 2.8 0 2.8 0 0.00
ほしのうら 2.8 1.5 1.7 2.1 4.5 3.6 42 1.25 星の森
にしうら 1.2 0.7 1.1 1.8 3.2 2.6 5.5 5.1 28 1.08 西の内
江尻 38 27.8 1.7 1.6 0 39.7 29.4 95 1.35 江尻 江之尻
又そ 28 17.2 0 0 8 6.4 36 23.6 100 1.53 又そ
門畠 13.4 8.7 0 0 13.4 8.7 100 1.54
むかい 3.2 2 0.6 0.7 9.6 7.7 13.4 10.4 74 1.29 向井
六ろ 0 0 0 0 19.6 15.7 19.6 15.7 0 1.25 六路 櫓くろ
半しゃ口 9.9 7.9 12.8 15.8 8.8 7 31.5 30.7 33 1.03 半尺口
山畠 0.1 0 0 0 0.1 0 0 #DIV/0!
ミのふ尾 8.1 8.1 0 0 8.1 8.1 100 1.00 御農
中島 0 0 1.9 1.8 1.9 1.8 0 1.06 中島
たまこ 17.9 11.8 0 0 16.8 13.4 34.7 25.2 100 1.38 玉江 たまこ
かうのさ 56.4 39.6 1.8 2.1 58.2 41.7 95 1.40
あまつけ 4.4 3.2 1.6 2.6 6 5.8 55 1.03
のゝかけ 8.6 8.4 6 6 14.6 14.4 58 1.01 布懸 布懸
ほうじ川原 1.9 1.4 0 0 1.9 1.4 100 1.36
小山 0 0 2.7 2.4 2.7 2.4 0 1.13
やしき 19 14 6.7 8.7 25.7 22.7 62 1.13
ちゃ 0.5 0.3 3.5 2.4 4 2.7 11 1.48 ちゃや交じり
まぜめ まぜうめ 55.3 40.8 7.3 6.3 62.6 47.1 87 1.33 交見
かきはな 1.2 0.9 0.9 0.5 2.1 1.4 64 1.50
こはま 6.9 5.5 0 0 6.9 5.5 100 1.25
きょうしの谷 10.3 8.8 0 0 10.3 8.8 100 1.17 強地
かうのた 8.6 6.5 0 0 8.6 6.5 100 1.32
五のさ 21.3 15.4 5 4.9 26.3 20.3 76 1.30
かなかど 32.2 23.2 4.1 4.5 36.3 27.7 84 1.31 金門 かなかど
こし守 8.9 5.4 0 0.8 8.9 6.2 87 1.44
小池 40.4 26.1 1.7 1.6 42.1 27.7 94 1.52
平池 67.8 61.6 13.9 16.2 81.7 77.8 79 1.05 上平池、下平池 平池
ほりの内 26.6 20 20.5 11.6 47.1 31.6 63 1.49 堀之内 堀之内
くるまうし 20 14.5 0 0 20 14.5 100 1.38 車司
大そう 56.2 44.4 9.2 10.7 65.4 55.1 81 1.19 尾道 大ぞう
はかの谷 24.4 21.2 2.6 2.1 27 23.3 91 1.16 墓の前
はかの前 20.1 17.9 0.1 0 20.2 17.9 100 1.13 墓の前
上のかいと 0.7 0.5 4.9 6.2 5.6 6.7 7 0.84 上垣内
こたん 0 0 0 0.7 0 0.7 0 0.00
ふけん 0 0 1.1 1.5 1.1 1.5 0 0.73
1067.8 812.1 207.8 188.7 114.1 91.3 1389.7 1092.1


資料及び参考資料
元禄十年星田村絵図(交野市市教委・交野市文化財事業団蔵)
天保十四年星田村絵図(  同)
星田村大絵図(  同)
河内国交野郡星田村地詰帳( 同)
交野市史( 同
堺県管下河内国第三大区九番領萬分之六図複写版
星田懐古誌上下巻ほか西井長和氏の著述
星田歴史風土記(交野市市教委・交野市文化財事業団刊)・まんだの和久田薫氏
の著述
他村農民の耕作地  
筆数 石数 人数   
ねや六右衛門 7 5.3 1  
ねや太郎右衛門 5 5.7 1  太
ねや久左衛門 4 4.5 1  久
その他ねや農民 10 13 8  寝
ねや農民計 26 28 11  
かうだ中兵衛 6 6.6 1  中
その他かうだ農民 3 4.1 2  高
かうだ農民計 9 10.7 3  
なし作り農民 2 1.9 2  茄
なし作り農民計 2 1.9 2  
 
合計 37 40.6 16  
地詰帳からみた星田村人以外の農民の耕作地
出マークがつけられた土地 (大久保藩)
小字名 田畠の区画数 田畑の面積 田畑の生産石数
平いけ 15(102) 12.1 町(ha) 16.5
ほりの内 14(54) 10.9 13.8
大そう 11(74) 10.2 12.7
一つ松 10(70) 5.4 6
小池 9(17) 7.4 9.5
かせう 8(73) 4 5.5
はかの谷 6(27) 8 6.5
くるまうし 5(12) 4.5 5
上のかいと 5(29) - 0.7
きもんた 3(112) 3.8 2
ませめ 3(6) 0.8 0.9
かいと 2(76) 0.1 0.2
江尻 2(39) 2.1 1.3
かなかど 2(41) 1.5 2.1
ふじがお 1(55) 0.5 0.5
かけひ 1(19) 0.2 0.3
かんでら 1(37) 0.2 0.6
はんしゃ口 1(74) 0.2 0.2
中嶋 1(4) 1 0.8
あまつけ 1(30) 0.1 0.2
やしき 4(138) 0.4 0.9
まぜうめ 1(73) 0.2 0.2
かうのた 1(5) 1.3 2.5
こし守 1(8) 1.3 1.7
ふけん 1(8) 0.2 0.2
108 80 96.4
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古資料、古絵図から見た江戸、明治期の星田2(小字
地名から見た地史)
河内国交野郡地詰帳による星田の農業と豪農・中農

5反百姓出ず入らず

昔のことわざで五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとん

の経営であると言うことです。ただし自作農の場合で、小作の場合は、半分は地主のもので自分の収入は収穫の半分で2反5畝になる。

1反とはほぼ1ha(ヘクタール)で、1haは,100m×10m四方あるいは33m平方mである。
従って5反とは100m×50mの大きさである。
1反の田から1石の米がとれる。
1石の米は人1人が1年間養うに必要な量である。5人家族を想定すると5石必要でそのためには5反の田が必要である。
ざっとした計算である。
年一石の米を食べようとすると、第2次大戦後に食糧配給制度があり、事情が少し改善して1人2合7斥まできたが、腹いっぱい食べるためには一人3合配給が目標という時代があった。1日3合を365日食べれば年に1石8升5合になり、1石を超える。そのためには毎日朝昼夕食とも3杯飯を食べることになる。
人の1日取得カロリー1500カロリーを米食だけで取得しようとなるとこうなるが、今日副食が豊富であり、とてもこのようにたべられない。
役家とは名請百姓で年貢の納税義務を負う者であり、自分の耕地を持たない無役家との割合2対1であり、無役農家の割合は
3分の1を占めるが、豪中農家の耕作地は、広域に及んでいて無役農家や使用人を使ってのことだろう。


市橋藩の庄屋東兵衛氏は、幼名を半五郎といい、地詰帳の半五郎のことであろう。これによると庄屋東兵衛家は、田、畠、屋敷すべてを含めて80筆の記載があり、すべて半五郎一本で、地名や屋号のついた別名はなく、石高42石で、1区、2区、3区、6区に集中していて4区、5区にはない。

市橋家の同役庄屋三郎右衛門氏は、石高で47石で一番多いが、三郎右衛門 辻やと地名の辻屋がついたものが15石あまりあり、6区の屋敷の中で、三郎右衛門と辻や三郎右衛門の双方が存在する。全区にわたるが、辻や三郎右衛門は、3,4,5区に集中し、地区別に使い分けしているようにも見える

今井藩後に大久保藩となるが庄屋の半兵衛は、38石で領地は上平池、堀の内や尾道など6区であるが、個人の請受地も6区に多い。

八幡藩の庄屋源左衛門氏については、地詰帳の源は源左衛門氏の幼名として、源と辻源、辻やの源は,同一人とすると24石あり、八幡藩の領域は、3区が中心であるが、個人の請受地としては、3区もあるが、八幡藩は荘園時代から豊臣時代など最も古い歴史をもち、古い水田地である1区、2区が多いのであろう
市橋家領          家数 313軒   内役家      210軒       石高 1306石
                             無役家    103軒

八幡(善法寺)領     家数   9軒   内役家        6軒       石高  120石   
                             無役家      3軒

大久保領        家数 10  軒   内役家        5軒           石高 109.8石
                           無役家     5軒

村中合
           家数  332軒   内役家      221軒            村高1535.8石
                         無役家     111軒

星田の3領家と庄屋(元禄3年の覚書より)

「河内国交野郡星田村地詰帳」のページを追ってブロックをつくり区画番号をつけて作成した地図である。この原図は交野市史の交野市全図(昭和20年代頃まで星田村の土地登記などに使われていた小字の地図。)の上に天保14年星田村絵図記載の小字名や道、池などを記載して作成した。当時の広域交通路として東高野海道と山の根の道(山根街道)の2道のみが描かれている
東高野街道は、京都の東寺と高野山を結ぶ参拝道として発達してきた道で、当時の国道級の道であり、山根街道は、けもの道が起源とされ山の麓をはうように発達してきた山の根の道とも呼ばれ主要各地を結ぶ道である。両道とも傍示川より西側は農道として残っているのみで交通路としてはなくなっている。

天然の良田 中川の西側(1区、2区)と池尻


星田のことを西は乾田、東は条理田と言われる。これは星田の中央を流れる中川を境に東側と西側はその土地利用が別の形で発達してきたことを言っている。つまり東側はその先に天の川が流れている。この川は、生駒山の中腹から発し水量が豊富であり、長い流域で高度を徐々に落とし、流れが穏やかである。また中川は湧き水中心で、この両川の合流する手前は両河川の扇状低湿地あるいは後背地として水田耕作の天然の条件に恵まれていた。このため水田の歴史は古く、古くは弥生時代に始まり、また古代の物部氏あるいは交野屯倉の一部などのいろいろな歴史経過を経て、奈良時代大化の改新の際には班田収受の条理制が敷かれたが、それに含まれる古くからの水田地帯であった。地詰帳ではこの地図の1区中川の東および2区の同下流からはじまっている。その中で1番始めに池の尻をおいている。この地名は、明治初期から昭和にかけての小字地図にはなく、天保絵図では星田大池に沿ったところにあるみどり池の西側の地で、地詰帳では、1町(1ha)あたりの耕地面積で、石高で12石の畠田で、現状では墓の一部と住宅が建っている。星田大池の関連ではじめにもってこられたものとしてそのまま1区扱いにしている。


中川水系の池の整備と灌漑水路
中川から西側の地は,西高東低の傾斜で台地になっており、利水条件が悪いため、平安時代から鎌倉時代にかけて牧場(星田牧)に使われてきたという歴史的経過をたどっている。星田の農耕特に江戸以後の水田の歴史は、中川の西側のかって星田牧であった干(乾)田地帯に池や灌漑施設を布設などして水田地帯を拡充していくことによって進められた。


中川水系
中川は、現在暗渠部分が増え、かなりの部分が道路になっているが、星田南線道路(星田公園の西側を妙見に向かう道)
と交差しているところから北側の下流をいい、ここから上流の妙見に向かう道にそった川は紐谷川という。元禄絵図、天保絵図とも紐谷川沿いに上の池、中の池、今池の3つの池を描いている。中川沿いに妙音池が描かれている。
また天保の絵図で見ると東側に東川が流れている。この川は星田山中の小松寺(元禄期に廃寺)があった小松山付近に源流を持ち小松谷川、菖蒲の滝を流れて天野川に合流している明治以降は星田妙見の名をとって妙見川というが、妙見宮の鳥居の南側で紐谷川が東川に接近している。
これは、東川の水は、降雨時の大量の流れのときは東川に流れるが、平常時の流水は、紐谷川に分流させ、妙音池で貯蓄される仕組みになっていたとされるが、天保期に両川が既に繋がっていたのであろうか、なお、妙見川に最近まで架かっていた十方橋という石橋の少し上流で紐谷川に分流していたが、十方橋の欄干に昭和10年11月架換の表示があったがその先は不明である。



可所川
天保絵図で紐谷川沿いの3つの池の今池付近から、小字のみのとたまこの間を通って東高野街道の一里塚の左右の松を通り東高野街道沿いに水路が描かれている。この川は現在でも中川の水が流れていて、星田大池ができてからは、星田大池からの水も流れているが、それ以前からの中川水系の川であったであろう。星田の地形は西高東低でしかも現在の星田駅周辺が高くなっていてその付近から東高野街道が北東に走っている。その道に沿っ北側が高くなっていて沿う形で少し高くなっていて壁を作っていて、その壁の手前をながれている。星田の全体の地形に沿って中川の標準水位にあったところを流れていた川であろう。従って星田駅周辺の高いところでは極限に近いところをながれている。地図の小字の境界にはすべてといっていいほど灌漑や農道があって、藤ケ尾団地や新関西製鉄など大規模開発地以外は、そのままの形が残されている。可所川は,六路と玉江の両小字境界にほぼ一致する。3区では江尻の左右の2本と神出来と千原の間の3本の境界線上には水路は、中川の水が流れる可能性はあるが、西側の玉江と布懸の間と布懸と傍示川の間の2本の境界線上の水路は、星田大池から流れており、中川からは高度の関係で無理であろう。


星田大池の築造と大池水系
星田は干(乾)田といはれるが、星田村の南側には広い山岳地帯があり、そこからの流水は、豊富である。短い流域ではげ山が多かったため、降雨時には大量の水が山から流出するため、当初は傍示川や妙見川ではこの大量の山水による水害(元禄絵図のほうじあれ、東川あれ)対策という問題も抱えていた。そこで星田大池の築造が始まったが、源流は、地獄谷川とぼって川で現在の傍示川であるが、地下下付近で、先の東川(妙見川)と同様、降雨時の大量の水は、防災河川である傍示川に流し、平常時の水流を大池に取り込む方式をとったのであろう。それでも大雨時には元禄絵図に描かれているほうじ荒れが起こっている。明治末期に、現在の完全閉鎖型の星田新池が築造され水害対策が徹底された。
星田の用水路は、小山谷(紐谷すなわち中川)系統と中島(星田大池)系統と区分されているが要するに従来からある中川系統に、星田大池系統は、貯水容量が大きく、しかも高い位置を流れてきて従来からの灌漑範囲の限界を拡大していることであるが、小字地図の小字の境界線上には主要水路がある。



3区 住居区である6区に隣接し、住職近接や中川からの利水によって、1,2区に次いでひらけたところだろう。また星田大池からの放水路は布懸、玉江、中島の3小字が作る接点に結びつき、この接点を5辻といい、ここを始点にして、灌漑水路が小字境界線上を中心にひろがっている。また東高野街道と数箇所で農道や水路が連結している。地図にもも色とかき色の数字が書いてあるがもも色数字は八幡領の領土を筆数で示していて、かき色の数字は大久保領の筆数である.3区はろくろ、たまこ、かんでらなどの数字が多く、このあたりが中心であろう。
4区は東高野街道沿いの地域であり、街道の両側の地名は5のさ(こうのさ)といい、北側のこうのさに明治33年開通の関西鉄道(JRの前身)の星田駅ができた。こうのさから側田にかけての地域は、地盤が高く、標高が高くなっていて中川からの水は届かず、星田大池の通水以後に布懸、たまこの境界または布懸の傍示川側の境界線の灌漑水路を通じて送られて遅れて水田化された地域で、北側の平池と名がついているところが先に水田化が進んだであろう。傍示川から西側は、大谷は居住地区の飛び地になっており、東高野街道が村の境界になっており、通りの北側は寝屋村である。でありその西側は、東高野街道と山根街道沿いの地域であるが、両道は西端の隣接する打上村で合流していた。(この地域は,大正初めに上流に大谷新池が築造され、その灌漑区域になり、また昭和7年開通の府道泉大津交野枚方線によって東高野街道を分断し、両道は交通路としては消滅していて農道の形で残っている。)
天保の絵図で見ると現在の大谷新池に近いところに深谷川と西の村境に近いところに長谷川が流れている。両川は、先で合流して打上川となって傍示川(下流は、たち川)を含めて寝屋川の源流の1つである。ちゃ、まぜうめ、きょうじの谷などの連続5小字が対象地域と思われ現況では10町(ha)ほどの田畠を地詰帳の計数でみると田畠は6.7町で水田率(全田畠面積に対する田の面積の割合)90%で、上中下指数(反当たり収穫石数)1.36石でランク的には中に属している。
5区は平池や小池などの小字名がついているが、農閑期や池に余裕があるときに可所川や3区から5区に灌漑水路を通じて送水し、一旦ため池に貯留するため池農業の池が多かったことが想定される。また中川の鎌田の浦と呼ばれていた川尻の池に近いところで乾村からきた水路と交流しているが、その水路を通じて中川の水の水位が高いときには、西側のより高度の高いところの水路に流すなど、水の循環装置にも色々工夫がされているようである。現在は5区は小字境界を中心に主要水路が残っていて、その間に比較的おおきな面積の田圃のあぜ道と小水路が整備されているが、星田大池の築造とその後改修増強によるものであろう。元禄絵図ではこの地区に大久保藩の領域が大きく描かれている。また6区のかき色の数字は大久保藩領の筆数をあらはしていて平池、堀の内,大ぞうに多い。大久保藩に新たに知行されたのは貞享4年(1687年)でそれ以前に新田開発が行われて造られた田畠であろう。
6区は、星田の集落、居住地区である。居住地区は、外部からの侵入を防ぐ城郭風に集中して集落がつくられていて、すでに4区で述べたように東高野街道沿いの一角の大谷地区だけに飛び地状に居住地域ができている。6区の小字は、東村のほか西、北、乾(いぬい)、艮(うしとら)、坤(ひつじさる)の方位のついているが、村役場では、当時、別称で上村、堂坂村,辻屋村、西村、小北村、小北村、中村,下村、なべかなどの地名で事務を行なっていて、この地詰帳の土地所有者の住所地についてもこの地名を使っている。年貢は、住まいの屋敷地は、田や畠と同様ヤシキとして年貢を払う必要があった。6区の垣内、上垣内と1区にある外殿垣にはいずれも垣内がついている。垣内(かいと)とは、垣根のことで新興開拓地を意味し、その場合、新耕田畠だけでなく居住地も一緒に移すという意味をふくんでいるとされている。外殿垣内には元禄絵図では御殿屋敷が描かれていて星田村大地図ではこの屋敷の大きさは田3枚と書かれてい
豪農・中農とは
地詰帳に記載の星田の耕地の数は2138筆で 名請農家の数は,355軒で名請農家1軒あたり耕作田畠(屋敷数も件数で加算。)の件数は、5.5筆であるが、15筆以上の保有者を豪農・中農家とした。名前はすべて同じ名前は同一人とした。
今日の苗字と名前を使う中での名前は、重複して同名が多いが、当時は、ほとんどが苗字なしの名前だけであるが、幼名と親の名前を併用して親の名前を継承する場合が多く、案外同名が少ないのではないかとおもえる。
また例えば、三郎右衛門氏(以下.敬称を略。)の場合
 三郎右衛門、
 三郎右衛門(辻や)
 三郎右衛門(小北)と3種類の書き方があるが、屋敷で三郎  右衛門(辻や)、三郎右衛門(小北)の両名の名で別々に年  貢を納めている場合は、別人としたが特に別の年貢を納めていない場合は、同一人とした。
河内国交野郡星田村地詰帳から見た
    星田の豪農・中農

八幡藩、大久保藩の( )内数字は、双方とも
各小字内の全ての土地筆数(区画の数)

明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較
税地  明治8年改正反別(大阪府地誌
田  191町5反2畝25歩
畑   38町7畝10歩






米収穫高 明治23年 (交野郡米改良組合)
  4、677石34


   豪中農家の地区別生産石 単位 
1区 2区 3区 4区 5区 6区 全区
喜兵衛 0.00 2.38 9.16 0.00 7.53 0.26 6.28
同 西 0.00 0.00 2.44 0.00 2.09 0.40 4.93
同 なべか 0.00 2.10 4.05 0.00 1.85 0.12 8.12
喜右衛門 0.82 3.92 7.19 0.00 12.48 0.80 18.72
同 西 0.00 0.00 5.89 0.00 0.60 0.00 6.49
久右衛門 0.00 0.44 11.35 9.72 5.82 0.51 19.83
同 大谷 0.00 0.00 3.59 0.00 4.42 0.00 8.01
九郎右衛門 4.82 0.00 0.57 0.10 5.35 0.51 11.35
久三郎 0.00 1.43 6.27 0.50 3.27 0.16 11.64
久七郎 0.00 0.00 4.52 0.00 3.30 0.26 8.07
9.73 7.36 2.81 0.00 1.20 2.52 23.61
五郎兵衛 0.00 0.22 0.00 4.77 4.09 0.00 9.07
三郎右衛門 15.54 1.96 10.34 3.84 7.15 8.28 31.68
同 辻や 0.00 0.00 6.72 2.30 5.99 0.44 15.44
三十郎 0.00 0.00 0.00 8.94 2.67 0.00 8.77
同大谷 0.00 0.00 0.00 0.00 0.00 0.00 2.84
新二郎 0.45 1.30 0.00 11.90 3.01 0.18 7.45
同 大谷 0.00 0.00 0.00 8.53 0.87 0.00 9.40
新右衛門 0.03 0.72 8.11 6.82 10.49 0.48 17.74
同 大谷 0.00 0.00 0.95 1.72 1.70 0.00 4.37
同 川 0.00 0.25 2.86 1.21 0.00 0.21 4.54
庄右衛門 1.58 4.23 2.10 0.00 0.42 0.00 8.32
茂右衛門 1.90 1.42 1.58 2.32 4.39 0.38 11.98
次兵衛 0.88 2.93 4.41 0.42 1.78 0.00 10.42
二郎兵衛 0.00 1.10 1.97 0.00 10.77 0.00 13.84
十兵衛 0.00 0.00 14.35 2.20 5.47 0.00 22.03
甚七郎 3.69 1.39 3.88 0.00 1.19 0.29 10.44
清三郎 0.65 4.01 0.92 1.42 1.72 1.39 10.11
清兵衛 2.56 3.19 2.54 0.00 5.70 0.00 13.98
善兵衛 0.00 0.58 4.44 1.56 2.20 0.10 8.87
善三郎 0.00 0.00 1.60 6.87 0.00 0.00 8.47
太郎兵衛 0.00 0.48 6.81 1.65 3.16 0.33 12.44
忠右衛門 12.74 1.47 5.56 0.00 0.00 2.13 21.90
忠三郎 0.00 1.10 2.52 0.00 0.51 0.26 4.39
中兵衛 1.30 5.18 5.51 0.00 6.94 0.26 19.19
長右衛門 0.26 1.93 0.00 6.27 4.79 0.20 7.69
同 大谷 0.00 0.65 0.00 3.36 1.75 0.00 5.76
長兵衛 1.09 1.83 10.00 2.73 1.08 1.00 17.73
半兵衛 0.00 0.00 4.63 0.63 32.12 0.33 37.71
半五郎 19.35 4.53 14.47 0.00 0.00 3.24 41.59
平右衛門 12.75 4.13 0.74 0.00 1.10 3.05 21.77
彦右衛門 0.86 0.00 9.66 0.00 4.08 0.76 15.35
彦兵衛 9.45 2.71 6.25 0.43 1.10 3.03 22.97
藤右衛門 2.91 2.38 1.23 1.30 2.78 0.12 10.72
仁右衛門 0.59 0.70 2.82 1.08 3.99 0.76 9.94
与右衛門 5.17 0.67 12.95 3.93 4.49 0.58 27.79
与兵衛 1.34 2.23 9.79 1.09 4.26 1.18 19.89
与三兵衛 0.00 0.00 5.24 1.03 4.77 0.18 11.22
又兵衛 0.00 0.12 1.53 0.00 4.85 0.19 6.69
西右衛門 0.65 0.00 5.10 0.72 3.42 0.32 10.21
六兵衛 0.00 0.92 1.98 0.00 5.80 0.16 8.86
111.10 68.93 204.87 82.24 189.23 34.20 690.56
書記載の庄屋名         市橋下総守殿下星田村庄屋          東 兵 衛
                               同   断          三郎右衛門
                   今井九右衛門御支配同村庄屋         半 兵 衛
                   八幡善法寺御支配同村庄屋          源左衛門   
とうとのかい 9408 12
かいと 3850 6
のた 3080 3
かんでら 17667 18
かうけだ 3264 3
かけひ 9637 15
ちはら 780 1
にしうら 8315 9
むかい 9521 8
又そ 8062 8
六ろ 27367 33
0 0 0
半しゃ口 8837 13
たまこ 8161 11
0 117949 0
0 117949 0
星田村地詰帳では2138筆の記載があるが、一部で記載の方法が異なっている部分がある。すなわち通常は、各筆ごと 田の場合 「一 中六畝四斗七分  一石一升   上ノ六兵衛」 畠の場合「一 下畠 一反二畝廿歩   一石三升   与三右衛門」のように「田畠の区分」と「上、中、下、下々、上畠、中畠、下々畠 の田畠のランク付け」、「生産石(斗歩)数」を記載しているが、中に「一 出中畠五畝十歩升  9斗5升  大谷叉兵  衛」のように「出」マークがついたものがあり、また、「一          一石七升弐合    中治郎」のように「ランクや田畠の面積などの記載がなく  生産石(斗歩)数と名前だけが記載のものがある(右記の見本図参照)。
星田では、市橋藩と八幡藩、大久保藩の3藩の領地に分かれていて、各藩にはそれぞれ庄屋、村役人がいるが、この地詰帳は、市橋藩主導で作られたとされている。従ってこの不自然な形の記載は他藩の土地について、出マーク表示の部分は八幡藩、土地の表示がなく生産石(斗、升)数表示のみのものを大久保藩のものとすると、次に掲げる数字を加味すると各藩の石数の数字に近似し、従って結果的に、八幡藩、大久保藩の領域が明らかになっていると考えられる。



地詰帳の最後に
惣合千三百六石
百廿石 内壱斗六升六合ハ不足  八幡分
百九石八斗  内拾四石六斗弐升三合出米分

   

地詰帳の中で上、中、下田、畠などの区分を書き出したのが表であるが、生産石数を合計すると118石であり、上記八幡分の不足分1斗6升をを加えても120石あまりで合わないが、また出マークがついた分を合計すると96.4石に不足分14石六斗2升3合の出米分を加えると大久保藩の109石に一石あまり上回るが数字的には近似している。惣合の1306石は仁正寺(市橋)藩の数字である
元禄絵図では、八幡藩(2か所に区分されている。)と大久保藩の領土をエリアで示しているが、これで見ると周辺の小字にまたがっていて、かなり分散して領土が広がっている。複数の領主
が分有する相給村の場合、領土意識が希薄になり、石数中心の公儀領主といはれる場合もあるが、当初から分散されていたのか、長期にわたる承継によって分散したのか不明である。
地詰帳は、最も古いものは、文禄三年(1594年)に行われたいわゆる太閤検地によって作られた検地帳があり、江戸時代はその約40年後寛永十四年(1637年)に検地が行われた。その頃は星田村では、村中総がかりの新田畑の大開墾が行われたとされる。さらに40年後の延宝三年(1675年)当時天候不順などで慢性的な不作が続いていた悪条件の中で年貢の増収と小農経営の自立安定を目指し、畿内などの幕府直轄領で六尺一歩を一間、三百歩を一反とする新検といはれた縄で測量が行われたものであるが、くわしいことはよくわからないが、寛永の地詰帳を書き換えて作ろうとしていた資料ともとれ、しかも当時の星田村には近江仁正藩(市橋家)、相模小田原藩、と岩清水八幡領があって、それぞれ藩ごとに庄屋がいて、村役人も別々にいたとされるがまとめて任正寺藩主導でつくろうとしてしていたのではないかと思えるふしがある。当時の地詰帳は、検地制度は、公6民4といはれ年貢の取立てが厳しいため、庄屋などが全て処分し、資料に残るのを抹消したとされる中、たまたま庄屋の引き継ぎ文書で残っていたもので、当時の農業の実情がよくわかる
)星田村天保の絵図に記載の小字名と照合すれば地詰帳記載の地名はほとんど位置がわかる。とりわけ大きな小字は、100%把握できる。
地名の順番は、「池尻」だけが最初にかかれた跡東に移り徐々に西あるいは南北の隣接小字に移行しているので、小さな小字でもその位置は前後関係から大体見当がつく。「池尻」の位置は天保絵図から星田大池の南西の高岡山の麓あたりであろう。星田大池のある小字名は旭であり、明治末期にできた星田新池の付近の小字名も旭(飛び地。)で、昔の人は、池は生活の中心であったのでこういう地名をつけたり特別扱いをしたのであろう。「西の内」、「川尻」、「鬼門田」、「一つ松」、「野田」、「小池」、「又そ」、「半尺口」などの大きな小字は消滅してしまった。
「一つ松」では寛政年間に放水用樋の建て替えで下流の私部と住民同志の争いから奉行所を巻き込ん問題に発展したが、「川尻」と一緒になり「池田尾」になった。「鬼門田」は中川の東にあり、耕地面積5.4町石高6.3石の優良田畑であったが方位が鬼門で鬼門田といったが、聞こえが悪いので乙邊になったのであろう。野田は耕地7町で石高8.7石と大耕田であるが、野田,かんでら、かうけだ、かけひは地名の順になっておりいずれも八幡藩領の名前に載っており近隣関係で神出来や千原と一緒になったのであろう。
半尺口は、新宮山の北西あたりをいう。星田小学校の正門前から中川沿いの慈光寺に通ずる道を数十メートル行ったところを右折すると半尺口の大師堂がある。半尺口の地名は太閤検知といはれる文禄3年の検知帳にでているふるくからの地名である。この検知帳でも畠作の出来高が高い。
村の入り口が半尺(15cm)から来た地名ともいはれ、名前が変えられたのか。
東高野街道に沿って道の南北双方が五のさという地名になっている。星田駅から大谷地区に向かう道の両側である。
地詰帳では五のさは一か所しかないが、前にある「かうのさ」、「かうのた」が「五のさ」であろう。この地名も太閤検知の検知帳に記載の古い地名であるが、地名の五(ご)や「こう」は高野街道からきているものと思う。