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元禄10年星田村絵図(1697年)が描く八幡藩と大久保藩の領土と交野郡星田村地詰帳(1808年)が描く両藩の領土の変遷

 

元禄10年星田絵図が描いている八幡藩と大久保藩の領域

元禄10年絵図では、八幡藩120石の領土として、2カ所、大久保藩109.8石の領土として1か所描いている。八幡藩の領土は、小字の玉江(たまこ)と六路の境界の道現在の道に例えれば、星田小学校の正門の東の道(西の村の本通という。)で、六路の交差点(府道泉佐野交野枚方線の信号のある交差点)を越えてJRの星田駅に向かう道であり、現在でも駅前駐車場から駅の高架を抜けて星田駅の北側の星田池(昔の魚つり池)に抜ける道が残っているがその道であり、一里塚が描かれている交差している道は東高野街道で、その交差している一帯が領土になっている。まさに現在の星田駅周辺の南から東の一帯である。八幡藩のもう一つの地域は、川尻の池の南側、光林寺の東側、御殿屋敷の西側の地域が領土となっている。川尻の池は、新関西製鉄(旧臨港製鉄)の南西の角の交通事故慰霊塔あたりにあった大きさ1反(約1000㎡)の池で、御殿屋敷とは徳川家康が大阪夏の陣の際、宿い院したとされる屋敷跡で、1町(約1ha)ぐらいのおおきさであったとされる。小字の外殿垣内、あるいはとうのかいがそれにあたる。この付近は釜田浦といはれて、降雨時など中川の水位に余裕がある時には中川の水を東西に流路調節が行われていたとされる。大久保藩の領土は近隣の寝屋、茄子作両村に近いところで、星田村にとっては最もはずれで、かっての星田牧の長者屋敷や牧場の中心であったと思われる地域であり、現在の地形でいえば北星田地区の第2京阪道路の付近である。この時期の時代背景を見ると元禄絵図は(1697年)は5代将軍綱吉の時代で、星田村では、寛永14年(1637年)頃から村の記録に星田大池が登場し、その頃から星田村では村中総掛かりによる大開墾が行われたとされていることから、大開墾は星田大池の築造を柱に水田開発が行われていたのであろう。貞享4年(1687年)に大久保藩に先駆けて永井藩に知行が行われたのは、この水田開発の結果と見るべきで、その後大久保藩に移藩されたのである。また八幡藩の知行については、古く豊臣秀吉が、かっての荘園時代は八幡八幡宮が荘園主であったことをふまえて120石をご供料として八幡藩に与えたが、徳川家康もそのまま8石7斗7升の朱印状を八幡藩に与え、ほかに小字の防龍は、新宮山の八幡宮の社坊であった愛染律院の坊領とされこの付近で120石の領地があったのであろう。朱印状があるので印字山という地名が残っており、防龍は坊領のことであろう。しかし元禄絵図がえがいている八幡藩の領地は、かっての星田牧で、特に星田駅付近は、標高4~50mの高台になっており、標高70mに近い星田大池からでないと用水が届かないところであり、八幡藩の領地も星田大池の通水によって、永井藩(大久保藩の先代)の知行の時期に八幡藩も印字山や防龍からまとめて領地替えがあったのではなかろうか。

交野郡星田村地詰帳が描く両藩の領土

地詰帳は、検知帳のことであり、普通検知帳は各藩ごとに作成されるものであり、各藩の村役人が年貢の徴収のため請受農民別に事務的に作成する名寄帳によって公租を徴収されているというが、この地詰帳は何の目的につくられたのか不明であるが市橋藩主導で造られたともいはれている。この地詰帳は、市橋、八幡、大久保の3藩の請受農地2、138筆について小字別に集約された形で記載されており、市橋各藩別に右の書式で区別でき、これをメルクマークとして利用し各藩に分類することが可能である。市橋藩は、太閤検知で行われた通常の形式であり、大久保藩の場合は各田畠の各筆に「出」マークが書かれていて、大久保藩は、書式が全く異なっていて各田畠の上中下などのランク、と土地の面積の記載がなく、石斗升合など生産量だけの記載になっている。

左の表は以上のメルクマークによって各小字内の八幡藩大久保藩の田畠の筆数を示した実数であり、( )内の数字は小字内の市橋、八幡、大久保3藩の全数である

八幡藩の地詰帳の書式が従来の田、畠中心の上田、中田、下田のランクを採用せず、また耕地面積を記載しなくて、生産石高だけの記載する方式の採用は、星田は綿花栽培や星田縞などの敷布生産も盛んで、あったことから綿花栽培などに対する年貢制度を配慮していたのではと考えられる。

この地詰帳の作成時期は、表紙の年号が虫食いのため読み取れなくて、5年で辰年霜月とされているが、5年の辰年は、慶安5年(1652年)と貞享5年(1688年)と文化5年(1808年)だけで、しかし、前2者は、その年に新しい元号に改元されていて霜月がないとされている。農家の数や水田化の進行などから文化5年(1808年)と見てよいのではなかろうか。

次表は、元禄3年の3領家と庄屋の覚え書き文書で星田村で最も古い文書であるとされていて、延宝3年(1675年)の検知(6尺1分を1間とした新縄で行われた検知)の15年後の農家の実態を表している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

元禄3年と文化5年の間には118年の開きがあるが,元禄3年では役家を請受農家とし、無役家を小作農家とすると八幡藩で請受農家6軒で、小作農家3軒大久保藩で請受農家5軒で小作農家5軒であり、文化5年の地詰帳では、単位が農家数と農地筆数の違いがあるが八幡藩で141筆、大久保藩で108筆と相続をはじめいろんな形の承継や星田大池や灌漑用水によって分散化や耕地拡大が起こったのであろう。

 

 

 

八幡藩の領域  

東高野街道と西の村の本通りに面する六路地区は、100%全筆、玉江(たまこ)地区は、70%の20筆が八幡藩の領地、また楚(四馬塚)は、24%の8筆、神出来には「かけひ」、{かうけだ」を含めている。地詰帳では3個所でこの地名を連続した形で掲載しており地域的には近隣と見ていて、この地域の60%あまりが領地である。。中川以西であるがとうのかいとは、もともとは御殿屋敷で、徳川家康が大阪冬の陣で宿陣したとされる平井家跡で75%が領地になっている。八幡藩の領域は、大久保藩が分散化傾向が強いのに反して、特に東高野街道沿いに集中化しているように見える。

他方大久保藩の領地は、元禄絵図では、平池地区の1点を中心に集中して描かれているが、平池の下平池、上平池地区に拡大して見ても15筆で15%と残存率が低く、近隣の池の内、小池、大ぞう(尾道)などにやや高く広がっているが、領土としては全村に広がっている。普通数藩の領主がいる相給村の場合、領主の領土意識が低く、藩の石高中心の運営がされる場合が多いとされているが、両藩の間で八幡藩の場合は集中度が高く、大久保藩の場合は、分散度が高く、両藩の領土意識の間に大きな開きがあるように見える。

なお地詰帳では、請受農家を個人別に把握できるが、八幡藩の源氏は、元禄3年の覚え書きに名をつらねているが、幕末まで庄屋を続けている。

八幡藩の農家

大久保藩の農家

 

農家氏名

耕地筆数

石高

農家氏名

耕地筆数

面積

石高

 

7

5.1

半兵衛

21

18.3

21.6

 

忠右衛門

6

7.1

半十郎

6

3.9

5.2

 

半五郎 .

6

4.4

上ノ喜右衛門

5

2.8

3.8

 

明意

5

3.8

三十郎

4

2

3.6

 

彦兵衛

3

4.1

なべか半兵衛

4

3.7

4.8

 

西右衛門、堂坂次兵衛、久兵衛

3

喜右衛門

4

 

甚五郎

3

 

かう田中兵衛

3

 

奥兵衛、治兵衛、伝右衛門,与兵衛、中右衛門久三郎、七郎兵衛、源兵衛、清右衛門、長兵衛茂兵衛、次兵衛、市兵衛、九郎兵衛、出守与右衛門、庄五郎、庄右衛門、新兵衛、吉兵衛、甚七郎彦右衛門、重兵衛

2

清兵衛

3

 

以下2筆
中右衛門、ねや久左衛門、中兵衛、かう田新右衛門、惣三郎、川新右衛門、祐斎、にしの半兵衛

 

以下1筆
半三郎川はた仁右衛門久助三郎右衛門新兵衛作兵衛孫十郎辻や喜三郎上ノ伊兵衛二郎兵衛ねや三郎右衛門ねや清兵衛市兵衛六兵衛なし作清三郎吉蔵なし作小右衛門彦右衛門小右衛門助右衛門上ノ甚七郎上ノ甚五郎与三兵衛堂坂長右衛門下亦右衛門なべか彦兵衛辻与兵衛下伝右衛門与右衛門彦兵衛加兵衛半五郎太郎兵衛出もり与右衛門吉兵衛妙意

仁兵衛、西兵衛、三郎右衛門、平右衛門,与惣兵衛、新右衛門、新兵衛,藤兵衛、助右衛門、庄右衛門宗三郎、七郎右衛門、甚蔵、九郎右衛門井森にしの中兵衛、太郎右衛門、市兵衛、長二郎、庄五郎清右衛門、市右衛門、又兵衛、弥一郎、宗兵衛作兵衛、太郎兵衛、与兵衛、上ノ長兵衛堂坂半兵衛、十兵衛、彦三、なべか次兵衛堂坂又兵衛、なべか六兵衛,九兵衛、久右衛門又右衛門、小北三郎右衛門、小兵衛、善兵衛、喜右衛門、西ノ長兵衛、辻や源、あるき与右衛門川はた二郎右衛門、なべか茂兵衛、西ノ久右衛門西半兵衛、なべか作兵衛、堂坂亦右衛門西ノ忠右衛門、なべか喜兵衛、川角兵衛、民部卿小北久右衛門、与三兵衛、五郎右衛門、三十郎

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