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河内国交野郡星田村字詰帳に見る星田の農業と農家

河内国交野郡星田村地詰帳

地詰帳とは、検知帳のことで、検知は文禄三年(一五九四年)に行われたいわゆる太閤検地が有名であるが、江戸時代はその約四十年後の寛永十四年(一六三七年)に検地が行われた。その頃は星田村では、村中総がかりの新田畑の大開墾が行われたとされている。さらに四十年後の延宝三年(一六七五年)当時天候不順などで慢性的な不作が続いていた悪条件の中で年貢の増収と小農経営の自立安定を目指し、畿内などの幕府直轄領で六尺一歩を一間、三百歩を一反とする新検といはれた縄で測量が行われたとされている。星田村では、領主として大久保藩、先に貞享四年に永井藩に知行が行われその後大久保藩に移されたものであるが、直轄藩ともはれていてこの地詰帳の末尾の文章で、延宝五年写畢と記載されているから実施されたのであろう、当時の検地制度は、公6民4といはれ年貢の取立てが厳しいため、庄屋などが地詰帳など検知にかかる資料を全て処分したのではないかといわれていて近隣の村では見当たらず、星田村では、たまたま庄屋の引き継ぎ文書で残っていたもので、農業の実情がよくわかる貴重な資料である。

星田村では延宝の検地以後幕末まで検地は行われていないため、延宝の検地の際つくられた延宝の地詰帳が最後でまた最新のものであるが、この地詰帳は、そのものではない。この地詰帳は、表紙が虫食いされていて年号がわからないが、月の記載は、辰ノ霜月とされていて、これに合う年号は3つの年号があるが他の2つの年号は、いずれも5年に至らず、従って該当する年次は、文化五年しかないようであるが地詰帳の内容から見ると正に文化年間にふさわしいと思われる。つまり延宝の地詰帳からはじまって、文化五年に至る百三十年間の請田の売買、相続などの承継や新田開発などの徴税台帳としての諸条件を記録整理してきたもので、最終的には文化年間の請田や請受農家の実態を示しているものであろう。従って三藩の村役人、あるいは市橋藩が主導で作成されたものともはれているが、いずれにしても年貢の徴収事務のため村役人が作成する名寄帳の一種ではなかろうか。しかしこれは名寄帳として年貢の徴収台帳とするとこのとおり徴収しても星田村の村高には少しの額であるが合致しない。

 

星田村は、近江仁正藩(市橋家)、相模小田原藩、と岩清水八幡領の三藩による相給村であるが、星田村で一番古い古文書とはれる元禄三年の「星田の三領家と庄屋の覚書」がある。この古文書は延宝の地詰帳が作られた延宝検地の一五年前であり、延宝検地の状況は織り込んでいると同時に両資料はほぼ同時代とみなしてよいだろう。この覚書とこの地詰帳の内容を比較すると覚書では、請受農家と無役家を含めて、村中総数で、332軒、八幡藩で同じく9軒、大久保藩で10軒であるが、地詰帳では、単位が農家の軒数と農地の耕地筆数の違いがあるが、村中の田、畠で2138筆、八幡藩で141筆、大久保藩で108筆となっており、覚書に比べて、地詰帳はかなり分散分筆化が進んでいる。あるいは、新田開発が進んでいて耕地数が増えるとともに内容的にも水田化率が高まっていることも考えられる。特にろくろ、玉江など東高野街道周辺や北星田地区などの水田化の状況を見るとかなり進んでいて、星田大池の築造と灌漑施設の敷設がかなり進んだ幕末寄りの時期に近い時期の水田の状況に見える。

 

河内国交野郡星田村地詰帳について

本地詰帳は印刷物として一冊の本につくられているが、その原本では、2138筆の請田畑が18枚の紙に書かれていて、請受農家が農地の売買、相続など承継された場合あるいは請田を新田開発により新に取得した場合また、三藩の中で領主の移動があった場合などは、年貢の徴収台帳の原本として記録されていったものであろう。18枚の紙面には最初に記載農家氏名、最終農家氏名とその間の全農家の合計石高を上書きしているものである。(以下「上書き紙面」という。)各18枚の上書き紙面では平均して100筆あまりの請田について小字地名、耕地の田あるいは畠の区別、と耕地の上中下ランクづけ、耕地面積、請受農家名や年貢の額など太閤検知の地詰帳に使われている書式が大半で一部異なった書式で書かれている。普通年貢の徴収に関しては、領主の命によって行われる検知の際に村役人が作成する地詰帳と年貢の徴収事務に関して村役人が被徴収者である農民単位に徴税台帳として作成する名寄帳がある。星田村では農家300軒に対して2138筆で一軒の農家当たり平均筆数5軒以上あり当然の必要な事務書類であるがほかにも請田の相続や耕地の売買などに伴う請受農家の移動、新田開発による新しい請田の追加、畠から水田化などの変化は、年貢の徴収をするための名寄帳には当然書き換えられてきであろう。また各藩の領土は、元禄絵図が描く領土のように領域できめる固定的なものでなく、各小字の中で各藩の領地が交錯した形になっており、後述するように豪農、中農ということで15筆以上の耕地を持つ農家を分析しているが、該当する農家は,51軒あり、地域をまたがり、あるいは複数藩の領域を耕作している農家も多く・また星田地区は、木綿の栽培が盛んで、年貢は当初は米納であったが、商品経済の発達とともに銀納もできるようになったとされるが、年貢の支払いのための米の調達など複雑にからんで請田が交錯したことも考えられる。名寄帳の作成は各藩の領主単位に村役人がつくることになっているが、本地詰帳は                           三藩が一本にまとめられており、市橋藩主導でつくられたともはれている。村高の確保のため、三藩合同あるいは、主力藩である市橋藩主導で作られた名寄帳で、あるかは別にしても、そのまま課税しても、次表の小字別田・畠・やしきの石高記載のとおり、田が1、149石、4斗6升4合、畠が195石,2斗1升5合、やしきが27石1斗7升7合合計1371石7斗6升7合でこれでは、星田村高1535石八斗に対して164石ほど不足している。

 


 

小字別田・畠・やしきの石高

やしき

小字名

やしき

池尻

11962

0

11962

むかい

12671

720

13391

ひしら

4629

1042

5671

六ろ

19424

0

19424

濁谷

17737

1144

18881

しゃ

18502

12002

30504

藤が尾

25431

6374

31805

山畠

0

1273

1273

たかい亥の開

1690

0

1690

ミの

11970

253

12223

その村

28626

561

29187

中島

0

1820

1820

中ミソ

24373

0

24373

たまこ

33611

0

33611

とうとのかい

13786

120

13906

かうのさ

57076

2099

59175

かいと

16924

13635

30559

あまつげ

4644

1594

6238

川ノ瀬

2384

0

2384

のゝかげ

8929

5728

14657

西の内

4400

0

4400

ほうし川原

1923

0

1923

ほうりょう

1276

4328

5604

小山

0

1460

1460

かせう

31247

7439

38686

ませめ

54618

7030

61648

西の内内

10050

5903

15953

やしき

27177

27177

川尻

9932

12826

22758

ちゃ

459

2350

2809

森の木

14331

211

14542

かきはな

2876

450

3326

きもん田

47519

10715

58234

こはま

12595

0

12595

かまた

40219

0

40219

きょうしの谷

10681

0

10681

一つ松

52704

14090

66794

五のさ

21305

4932

26237

のた

68879

1700

70579

かうのた

12366

0

12366

かんでら

37831

480

38311

かなかと

25110

3173

28283

かうけだ

3264

267

3531

かなめと

6705

2347

9052

かけひ

9800

1347

11147

こし守

7066

0

7066

ちはら

3406

33

3439

平池

65962

18264

84226

地下の内

2950

1737

4687

ほりの内

15361

17135

32496

たうの内

558

2240

2798

くるま

19119

0

19119

ほしのうら

2440

3070

5510

大そう

55716

8379

64095

にしうら

11549

1750

13299

はかの谷

44648

2960

47608

江尻

36265

1960

38225

上のかいと

735

5101

5836

小池

42746

1000

43746

小たん

0

700

700

又そ

33421

0

33421

ふけん

0

1473

1473

門畠

13063

0

13063

1149464

195215

27177

1371856

625392

93972

 

 


 

地詰帳の総括文について

この地詰帳の18枚のウワ書文書の末尾に総括文を載せている。この文章は、年次の記載が二カ所で一カ所目は寛永の検地の際の記載事項で1行目の九百六拾弐石三斗九升九合 田方分から始まり、21行目(13行~14行を除く。)の木野吉右衛門までが寛永検地の際の記載事項であり、22行目の紙数壱百八拾三枚から末尾の写畢までは延宝五年の延宝検地で記載されたものであろう。

13行目 百弐拾石 内壱斗六升六合は不足 八幡分と14行目の百九石八斗 内拾四石六斗弐升三合出来分は文化5年に記載されたものであろう。

従って結果として寛永、延宝と文化五年(本地詰帳作成時)の3年次にまたがる文書である。

この総括文は、市橋藩に対する延宝五年の地詰帳を原本として作られたものであって従って1行目から12行目の惣合千参百六石までは、市橋藩のことで、最初の3行の田、畠、屋敷方分の数字を合算すると、毛付〆の千壱百六拾五石九斗弐升九合になりこれに続く百参拾石八斗三升三合 永荒砂入と弐石八斗六升弐合の荒の内にいるの2行は荒れ地(洪水等の被害地)で免税措置が受けられた地、さらに続く、四石九斗八升四合、と壱石三斗九升弐合は、新規開拓地か内容がわからないが、この4行を加算すると千三百六石となり、市橋藩の石高となり、これは寛永の検地の際の市橋藩に対する地詰帳の原本の写しであろう。

 

この18枚のウワ書き文書の後に別表の総括文で締めくくて、紙数183枚に地詰帳の請田、請受農家が記載されていて、毎年請受農家の変更、新田農地の登録など年貢の徴収に関係する事項を補正していき、最終的に18枚のウワ書文書になったものであろう。ウワ書文書の合計を試算したものが前頁の小字別田・畠・やしき別石高の表にまとめているが、総額で1372石。である。また内数で田は、1149石、畠では195石、やしきで272石である。これに対して、総括文では、田方分962石3斗6升9合で、畠方分、172石8斗6升5合で。やしきは30石6斗6升5合で合わせて毛付け〆1165石9斗2升9合になっていて,続く四行については、二行は荒れ(土砂被害)による減免である130石8斗3升3合と2石8斗6升2合が続き。残る二行は、新規開拓と思われる4石9斗8升4合と1石392合が続き、以上最初の田、畠、屋敷の三行の合計の〆と荒れの減免、新規開拓の四行を惣合して1309石になるが、これは市橋藩の石高に合致する。ウハ書文書からの試算石高には合致しない。ウハ書文書の1372石は、市橋藩の石高1306石を上回っているように見えるが次の八幡藩、大久保藩で示すように、上書き文書の中には、八幡藩の118石、大久保藩の94石の両藩の石高のほとんどが含まれているので、市橋藩の石高から150石近く不足する。


 

八幡藩、大久保藩について

この地詰帳では、2136筆の請田・畠について太閤検知で使われていた書式でほとんどが描かれているが、一部で全く別の書式で描かれているものがある。一つは、各請田の記載の書式のうち、田畠の種別、上中下のランク、田畠の面積の記載がなく、石高と請受農民の名前だけのものがある。星田村では星田山の頂上から見下ろすと米づくりよりも綿花栽培が目立ったという記述もあり、従来の田畠の種別や上・中・下などの田畠のランクや石高の書式は、綿花栽培の畠ではなじまないことが考えられ、交野町史では、郡津村では綿花栽培地はそれなりの書式が使われているとされているが、米作と綿花づくりとは条件が異なり、また、綿花づくりの場合、綿布や、星田縞などの綿製品の家内工業的なことも行われていたともされており、従来の米作中心の書式の不合理性を修正していたのかも知れない。

もう一つの別の書式は、書き方は通常の書式と同じであるが、小字地名と田畠の種別の間に出という字が付加記入されているものがある。この二種類の書式で記載されているのは、全体件数21

 

 

36件のうち、石高と請受農家だけのものは、140件で、出マークが付加されている件数は、104件である。これらを小字別にまとめたのが次頁の表である。生産石高だけの記載の石高は、119石であり、これは、八幡藩の石高120石に2石不足しているが、これは地詰帳の総括文に書かれている不足分の壱斗六升六合に近似し、この書式で記載の田・畠は、八幡藩の領地に属すると考えられる。また出マークが付加された書式のものを合計すると954斗であり、大久保藩の石高は、1098斗であるが、同じく総括文の十一行目記載の146合の出来分を加えるとこれも大久保藩の石高に近似し、出マークが付加された書式の請田・畠は、大久保藩の領地であることが判明できる。従ってウワ書文書の中には八幡藩と大久保藩の請田のほとんどが書き込まれている。

従って総括文は、市橋藩に対する寛永の地詰帳と延宝の地詰帳の鏡文章の一部を複写したものを鏡文書として作成されたものに、八幡藩と大久保藩の二行を付加記入したもので、これを鏡文書として18枚のウハ書文書が歴代の請田の移動を加味した三藩の領地の確定を含む概要書で、これをもとに、各藩の税札で最終的な年貢野賦課徴収が行われたのであろう。


上中下のランクと面積表示がない田畠

出マークが付けられた田畠

 

八幡藩

大久保藩

 

小字名

藩領筆数

生産石数

小字名

藩領筆数

藩領面積

生産石数

 

町(ha)

 

とうとのかい

12

9.4

平池

15

12.1

16.5

 

かいと

6

3.9

堀之内

14

10.9

13.8

 

のた

3

3.1

大そう(蔵

11

10.2

12.7

 

かんでら

18

17.7

一つ松

10

5.4

6

 

かうけだ

3

3.2

小池

9

7.4

9.5

 

かけひ

15

9.6

可所

8

4

5.5

 

ちはら

1

0.7

墓の谷

6

8

6.5

 

にしうら

9

8.3

車司

5

4.5

5

 

むかい

8

9.5

上の垣内

5

-

0.7

 

又そ

8

8.1

鬼門田

3

3.8

2

 

六ろ

24

27.4

交見

3

0.8

0.9

 

しゃ

14

8.8

垣内

2

0.1

0.2

 

たまこ

20

8.2

江尻

2

2.1

1.3

合計

141

118

金門

2

1.5

2.1

 

藤が尾

1

0.5

0.5

 

かけひ

1

0.2

0.3

 

かんでら

1

0.2

0.6

 

半尺口

1

0.2

0.2

 

中嶋

1

1

0.8

 

あまつけ

1

0.1

0.2

 

やしき

4

0.4

0.9

 

まぜうめ

1

0.2

0.2

 

かうのた

1

1.3

2.5

 

こし守

1

1.3

1.7

 

ふけん

1

0.2

0.2

 

合計

109

80

90.8

 

 

以上のように河内国交野郡星田村地詰帳は、各藩の領土単位でなく、小字地名順に請田、請受農家を並べ、すなわち農地順、農地本位に全村の農地を並べてその中で遺漏なく年貢をとりたてようとするもので、前述のように農家の平均筆数が多く、また領主が数藩にまたがる請受農家も多く年貢の徴収納付は、綿花栽培の米納、銀納などもからんで便宜的な方法が取られたであろう。また星田村のように数藩による相給村の場合一般的には領主との関係は石高の年貢の納付中心で、領主の領土意識が希薄になるといはれていて、年貢が納められている土地に対する領土感覚がうすく、決められた年貢の石高が確保されればよいということであろう。

八幡藩大久保藩の領土の変遷

八幡藩大久保藩の領土については元禄十年星田村絵図で領地を絵図で示して表示されている。これによると八幡藩の領地は、二ケ所で描かれていて一カ所目は、西の村の本通りと東高野街道が一里塚の少し西側で交差している付近で現在のJR星田駅付近を中心に描かれている。二ケ所目は中川の西で光林寺の東、川尻の池の南側で、川尻の池とは、現在府道線の交通慰霊塔付近にあった池であり、現在JRが鉄橋で中川をまたいでいるあたり付近が中心に見える。大久保藩の領土については、現在の北星田地区でJR星田駅北側から西側は寝屋村との境界に近いところ、北側は茄子作村に近.い北西部のはずれに描かれている。現在はこの付近は、第二京阪道路ができている。星田駅周辺から大久保藩の領地になった北星田地区は、地盤が高く、東に流れている天の川に向かって、西高東低で扇状に高低図を描いている。江戸時代の初期から中期にかけて造られた星田大池ができなければ、水量の確保が困難な地区で古くから星田牧の牧場に使われていたところである。八幡藩の領土は古く、石清水八幡宮は、平安以降に星田をはじめ、現在の交野、茄子作など一帯を荘園としていたことがあるが、豊臣秀吉がその経緯を踏まえて太閤検知の際120石の領地を御供料として与えたのがはじまりで


で、これらの領土は、星田村の古くからの水田地帯であった中川以西の地であり、元禄絵図が描く八幡藩の領土とは異なた地域である。大久保藩の領地は、徳川五代将軍の時代で比較的新しく、知行されたものであるが、-星田村では3代将軍家光の時代から星田大池の築造がはじまり、その頃から新田開発を進めてきたとされるが、現在のJR星田駅周辺や、大久保藩の領地付近まで通水するようになり、水田可能になり、その時期に八幡藩の領地が移された結果、元禄絵図が新領地をえがいているのであろう元禄絵図が描いている領土に対してこの地詰帳では文化五年の星田村三藩の年間の領地の分布の推移を比べることができる

八幡藩 次の地図は地詰帳による文化年間の八藩藩の104の請田の配置を示す地図で赤字は各小字の請田の八幡藩の筆数で黒字はその小字にある土地の全筆数の数である。従って東高野街道に沿って上からたまこ、ろくろ、またそ(四馬塚)という小字が続いている。ろくろ地区は現在の星田小学校の敷地をさらに東側の市役所の星田出張所の地域を含めて北村から一里塚に通づる古くからの道があるがこれが東の境界であるが,、このろくろ地区は全域が八幡藩の敷地であり、またその西側のたまこ地区は、現在の旭小学校の敷地と東高野街道にはさまった地域であるが34の耕地のうち六割が八幡藩である。かんでらの36の耕地にはかうけだ、かけひの18耕地を含んでいる。

一方で大久保藩は、元禄一〇年絵図では領土としては小字の平池付近で大きく描かれているが文化年間の地詰帳では次の図で示してかなり広範に広がっている。元禄絵図の範囲を大きめに見積もって上平池、下平池。堀之内、小池の範囲としてみても三八筆で六五筆は他の地域に分散化している。星田村のように領主が三藩の相給村の場合、領土意識が希薄で、石高社会とはれるように石高が確保されれば、その産出地はこだわりがないといはれているが、、八幡藩と大久保藩を比べてみると八幡藩の場合はある程度領土がまとまった形で広がっているように思える。星田村の土地利用については、

その特色として一つは綿花栽培が盛んであるということであり、もう一つは東高野街道沿道の土地利用で江戸期には宿屋など農業以外の通行関連で栄えていたとされており、明治になって衰退したとされているが、このことからすると、八幡藩は、広範囲にしまっているように見える。小字のとうのかいとは、徳川家康が大坂攻めに宿陣した御殿屋敷の跡地であり七五%を領地に取り込んでいる

地詰帳が描く星田村の豪農・中農

豪農・中農とは

地詰帳に記載の星田の耕地の数は記述のように2136筆で名請農家の数^は,355軒で名請農家一軒あたり耕作田畠(屋敷数も件数で加算。)の件数は、5.5筆であるが、15筆以上の保有者を豪農・中農家としている。名前はすべて同じ名前は同一人とした。今日の苗字と名前を使う中での名前は、重複して同名が多いが


今日の苗字と名前を使う中での名前は、重複して同名が多いが、当時は、ほとんどが苗字なしの名前だけであるが、幼名と親の名前を併用して親の名前を継承する場合が多く、案外同名は 少ないのではないかと思える。また例えば、三郎右衛門氏(以下.敬称を略。)の場合      三郎右衛門、三郎右衛門(辻や)三郎右衛門(小北)と3種類の書き方があるが、屋敷で三郎右衛門(辻や)、三郎右衛門(小北)の両名の名で別々にやしきの年貢を納めている場合は、別人としたが特に別のやしきの年貢を納めていない場合は、同一人とした。

村内の耕地の地域区分と地域の概要

「河内国交野郡星田村地詰帳」のページを追ってブロックをつくり区画番号をつけて作成した地図である。この原図は交野市史の交野市全図(昭和20年代頃まで星田村の土地登記などに使われていた小字の地図。)の上に天保一四年星田村絵図記載の小字名や道、池などを記載して作成した。当時の広域交通路として東高野海道と山の根の道(山根街道)の二道のみが描かれている。

 

 

 

 

 

 


豪中農家の耕作地は、広域に及んでいて家族、使用人、無役農家など小作人によって支えられていたのであろう。

市橋藩の庄屋東兵衛氏は、幼名を半五郎といい、地詰帳の半五郎のことであろう。これによると庄屋東兵衛家は、田、畠、屋敷すべてを含めて80筆の記載があり、すべて半五郎一本で、地名や屋号のついた別名はなく、石高42石で、1区、2区、3区、6区に集中していて4区、5区にはない。

市橋家の同役庄屋三郎右衛門氏は、石高47石一番多いが、三郎右衛門 辻やと地名の辻屋がついたものが15石あまりあり、6区の屋敷の中で、三郎右衛門と辻や三郎右衛門の双方が存在する。全区にわたるが、辻や三郎右衛門は、3,4,5区に集中し、地区別に使い分けしているようにも見える

今井藩後に大久保藩となるが庄屋の半兵衛は、38石で領地は上平池、堀の内や尾道など6区であるが、個人の請受地も6区に多い。

八幡藩の庄屋源左衛門氏については、地詰帳の源領域、3区が中心であるが、個人の請受地としては、3区もあるが、八幡藩は荘園時代から豊臣時代など最も古い歴史をもち、古い水田地である1区、2区が多いのであろう

 

5反百姓出ず入らず

昔のことわざで五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとんの経営であると言うことです。ただし自作農の場合で、小作の場合は、半分は地主のもので自分の収入は収穫の半分で2反5畝になる。

1反とはほぼ1ヘクタールで、1ヘクタールは,100m×10m四方あるいは33b平方mである。

従って5反とは100m×50mの大きさである。

1反の田から1石の米がとれる。

1石の米は人1人が1年間養うに必要な量である。5人家族を想定すると5石必要でそのためには5反の田が必要である。

ざっとした計算である。

年一石の米を食べようとすると、第2次大戦後に食糧配給制度があり、事情が少し改善して1人2合7斥まできたが、腹いっぱい食べるためには一人3合配給が目標という時代があった。1日3合を365日食べれば年に1石8升5合になり、1石を超える。そのためには毎日朝昼夕食とも3杯飯を食べることになる。人の1日取得カロリー1500カロリーを米食だけで取得しようとなるとこうなるが、今日副食が豊富であり、とてもこのようにたべられない。

明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較

この地詰帳記載の田畠の面積を集計すると、一部八幡藩の地区は石高だけで田畠の上中下ランクに加えて面積の記載がないので全量をとらえることはできないが、この分については石高からの推計地になる。

田は、市橋藩、大久保藩で73.9反、畠は同じく両藩で18町5反であり、これに八幡藩分120石の面積を仮に田の中クラスで推計換算すると1反あたり1.3石とすると120石の耕地面積は9町2反となる。合わせて田、畠と八幡分を加算すると全耕地面積合計は101町6反になる

税地  明治8年改正反別(大阪府地誌)

田  191町5反2畝25歩

畑   38町7畝10歩

 

筆数

石数

人数

 

ねや六右衛門

7

5.3

1

ねや太郎右衛門

5

5.7

1

ねや久左衛門

4

4.5

1

その他ねや農民

10

13

8

ねや農民計

26

28

11

 

かう中兵衛

6

6.6

1

その他かうだ農民

3

4.1

2

かう農民計

9

10.7

3

 

なし作り農民

2

1.9

2

なし作り農民計

2

1.9

2

 

合計

37

40.6

16

 

 

 

 

星田名所記による文化3年に建てられた家康行営の記念碑と家康の座所であった奥書院の上段の間を模して造られた記念の建造物

当時の御殿屋敷一丁四方あったとされ、宿営地は、艮(うしとら)村と外殿垣内の両小字の間の堀と梅林が描かれている.星田村大絵図では、田三枚の屋敷地を描いている。