河内国交野郡地詰帳による星田の農業と豪農・中農
地詰帳とは、検知帳のことで、最も古いものは、文禄三年(1594年)に行われたいわゆる太閤検地によって作られた検地帳があり、江戸時代はその約40年後寛永十四年(1637年)に検地が行われた。その頃は星田村では、村中総がかりの新田畑の大開墾が行われたとされる。さらに40年後の延宝三年(1675年)当時天候不順などで慢性的な不作が続いていた悪条件の中で年貢の増収と小農経営の自立安定を目指し、畿内などの幕府直轄領で六尺一歩を一間、三百歩を一反とする新検といはれた縄で測量が行われたものであるが、くわしいことはよくわからないが、寛永の地詰帳を書き換えて作ろうとしていた資料ともとれ、しかも当時の星田村には近江仁正藩(市橋家)、相模小田原藩、と岩清水八幡領があって、それぞれ藩ごとに庄屋がいて、村役人も別々にいたとされるがまとめて任正寺藩主導でつくろうとしてしていたのではないかと思えるふしがある。当時の地詰帳は、検地制度は、公6民4といはれ年貢の取立てが厳しいため、庄屋などが全て処分し、資料に残るのを抹消したとされる中、近隣の村では見当たらず、星田村では、たまたま庄屋の引き継ぎ文書で残っていたもので、当時の農業の実情がよくわかる貴重な資料である。。
交野郡星田村地詰帳の作成の時期
。交野郡星田村地詰帳(以下「地詰帳」という。)は全体で2138筆の田、畠、やしきについて記載があるが、1部で異なった形での記載があり、星田村は、市橋、八幡(善林寺)、大久保の三領主からなる相給村で、星田村で最も古い資料といはれる元禄3年(1690年)の3領家と庄屋の覚書がある。
この覚え書は、延宝の検地が行われた15年後の役家と無役家の家数を表しており、役家を請受農家、無役家を小作農家とすると、本稿では地詰帳の八幡藩と大久保藩の区画数を表しているが、単位は田畠の区画数と家数と異なるが覚書の八幡藩の役家6軒に対して地詰帳では141区画、大久保藩の役家5軒に対して地詰帳では108区画と地詰帳での耕地の分散化がかなり進んでいるように見える。元禄10年星田村絵図では、星田大池が1.3haの大きさで、最大期の1/4規模であるが地詰帳の地区(小字)別石高、耕地面積の表(表)でみるように耕地面積が村内に広がっているとともに、水田化率がかなり高くなっていて、天保14年星田村絵図に近い江戸末期の星田村農耕地の状況を表しているように見える。
地詰帳は原本が虫食いのため年号がわからず「□□5年辰年」にあう元号は文化5年(1808年)であるということからするとこの時期につくられたものとするほうが地詰帳が表している星田の耕作地の実態に合致していると思われる。
この地詰帳の巻末に別記の記載がある。
この文書には寛永14年と延宝5年の記載があり、また紙数138枚の記載があるが、この地詰帳は18枚ほどの紙面に書かれていて、その紙面にウハ書きがついていて、紙面のはじめとおわりの農家の名前とその間記載の総合計石高が書かれている。
その18枚の石高の合計が最初の毛付〆の近似値の千百六拾六石二斗と2石6斗多くでるが、これはなんらかの計算間いであろうとされている。
これに続く永荒砂入りの四郎兵衛、弥次右衛門、枚方庄左衛門分、源左衛門分を加算すると惣合千三百石になるが、これは、市橋藩の石高である。これに次の百廿石は,八幡藩の石高、百九斗は大久保藩の石高である。
従って別記の文章は、寛永拾四年 丑ノ卯月廿二日 田中小三郎ほか四名の署名 紙数百八拾参枚 と延宝五年 霜月廿日までは、延宝五年に作成された原本の一部で、それ以外はウハ書も含めて文化五年の年貢の取り立て台帳として、合成された文章であろう。以上のように理解することによって地詰帳が延宝5年の検知によって寛永の検知を書き換えられたとする誤解は、解決できると思われるが、毛付け〆千百六拾五石のウハ書の中には八幡藩と大久保藩の領域の石高は既に包含済であるのに惣合千三百六石の市橋藩の石高にも含まれ百廿石、と百九石八斗でダブル形状になるなど不自然な状況が残っている。地詰帳は各藩毎に造られ、通常は各藩毎の村役人がこの地詰帳の石斗升高に従って、農家の個人別集計して徴収事務上使用する名寄帳を作成するとされていて、現に、寛永12年名寄帳、延宝8年上ノ村名寄帳などが実存するが、この地詰帳は3藩の耕作地を小字名別に組み替えてウハ書を作成し、一体化されていてこの地詰帳は何の目的で造られたのか、市橋藩主導で造られたともされていてはっきりしない面がある。一般に数藩からなる相給村の場合、領土意識が希薄になり徴収石高中心の領土になる傾向が強いといはれるが、特に星田村の場合、地詰帳の豪中農家の項目で記載しているが、1農家あたり平均耕作地が5.5筆にもなり、複数藩にまたがって農地を保有している農家が多くみられるが、星田の場合綿花栽培が盛んであるため、年貢の米納、銀納などの複雑な要因があったかも知れない。
ウハ書記載の書式の方式の違いと3藩の区別
ウハ書とはここでは前項の巻末記載の文章との関係で使っているが、交野郡星田村地詰帳の冊子では2138筆の田、畠、やしきについて記載されている本文の各筆のことである。なお。やしきとは屋敷のことで、田、畠と同様年貢を納める必要があった。地詰帳の2138筆は、左記の3種類の書き方が混在している。ほとんどは太閤検知で行った書式を踏襲しており、小字単位に書かれていて、上中下、下々などの土地のランクと耕地面積、年間生産石高、請受農家名の順に書かれているが、これに出マークが付加して書かれているものがあり、また書式が全く異なっていて土地のランクと面積の記載がなく、年間生産石高と請受農家だけのものがある。この3種類の書式で積み上げたものであるが、出マークがついているものを大久保藩とし、ランク、面積の記載がなく、生産石数のみのものを八幡藩として生産石数の合計を算出したものが次表である。八幡藩は118石であるが、これは前項の巻末の記載文書の八幡分の内数でかかれている不足分1斗6升6合を加えると百廿石に丁度は合致しないが三~四合不足するが近似値になる。同じく大久保藩については合計は96.4石にしかならないが、終末の記載文書の内数拾四石六斗弐升三合の出来分を加えるとこの場合は大和田藩の石高百九石八斗に対してこの場合は、同じ1升あまり多くなるが同じく近似値になる。以上のことから地詰帳における3つの書式を各藩のメルクマークとして利用することが可能といえる。このうち、例えば八幡藩の土地のランクや耕地面積の記載がなく、生産石数だけの書式は、現在の星田駅周辺をはじめ星田では綿花栽培が多かったとされているが、これに見合った租税体系になっていたのではないかと考えられる。小字地名の由来は、地詰帳に使われた地名が役場で積み上げられ定着していったともいはれ、畑作時代は耕地環境はさまざまであったのが、星田大池が築造され灌漑用水の施設など水田地域が広まり、耕作環境の同一化が進み寛永14年の地詰帳の小字数71が明治初期の小字数38と半減に近い減少を示している。
以上のように地詰帳から八幡藩、大久保藩の農地を選別し、集計し、請受農家別に集計したものが左表である。氏名は、同名は全て同一人としているが、この時代は、幼名で後に親の名を承継することが多く、案外同一氏名が少ないのではないかと思われる。
河内国交野郡星田村の地名別石高・耕地面積・地図上の位置
|
水田率とは水田の生産石数÷(水田の生産石数+畠の生産石数)×100 |
上中下ランク指数は、生産石数÷田畠の面積の比率(反当たり生産石数 |
)星田村天保の絵図に記載の小字名と照合すれば地詰帳記載の地名はほとんど位置がわかる。とりわけ大きな小字は、100%把握できる。
地名の順番は、「池尻」だけが最初にかかれた後、東に移り徐々に西あるいは南北の隣接小字に移行しているので、小さな小字でもその位置は前後関係から大体見当がつく。「池尻」の位置は天保絵図から星田大池の南西の高岡山の麓あたりであろう。星田大池のある小字名は旭であり、明治末期にできた星田新池の付近の小字名も旭(飛び地。)で、昔の人は、池は生活の中心であったのでこういう地名をつけたり特別扱いをしたのであろう。「西の内」、「川尻」、「鬼門田」、「一つ松」、「野田」、「小池」、「又そ」、「半尺口」などの大きな小字は消滅してしまった。
「一つ松」では寛政年間に放水用樋の建て替えで下流の私部と住民同志の争いから奉行所を巻き込ん問題に発展したが、「川尻」と一緒になり「池田尾」になった。「鬼門田」は中川の東にあり、耕地面積5.4町石高6.3石の優良田畑であったが方位が鬼門で鬼門田といったが、聞こえが悪いので乙邊になったのであろう。野田は耕地7町で石高8.7石と大耕田であるが、野田,かんでら、かうけだ、かけひは地名の順になっておりいずれも八幡藩領の名前に載っており近隣関係で神出来や千原と一緒になったのであろう。
半尺口は、新宮山の北西あたりをいう。星田小学校の正門前から中川沿いの慈光寺に通ずる道を数十メートル行ったところを右折すると半尺口の大師堂がある。半尺口の地名は太閤検知といはれる文禄3年の検知帳にでているふるくからの地名である。この検知帳でも畠作の出来高が高い。
村の入り口が半尺(15cm)から来た地名ともいはれ、名前が変えられたのか。
東高野街道に沿って道の南北双方が五のさという地名になっている。星田駅から大谷地区に向かう道の両側である。
地詰帳では五のさは一か所しかないが、前にある「かうのさ」、「かうのた」が「五のさ」であろう。この地名も太閤検知の検知帳に記載の古い地名であるが、地名の五(ご)や「こう」は高野街道からきているかも知れない。
明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較
地詰帳の石高は、地詰帳の末尾記載とみるべきであろう。この地詰帳は、新検の延宝の地詰帳を文化五年(1808年)に何らかの事情で三藩の領域を明確に確定する必要があって、作成されたのであろう。計数的に見ると八幡藩と大久保藩の領域は市橋藩の1306石の中でマークをつけて、別掲で両藩を付加する形をとっていて、両藩の計数は重複し、内容的には矛盾が生じている。本地詰帳は署名の仕方からして明らかに公文書であり、ただ全体的な計数ではなく、八幡藩、大久保藩に属する請受地主と田、畠を明確化するためにマークをつけるとする限定的な役割を示す文書として見るべきであろう。
この地詰帳記載の田畠の面積を集計すると、一部八幡藩の地区は石高だけで田畠の上中下ランクに加えて面積の記載がないので全量をとらえることはできないが、この分については石高からの推計地になる。
田は、市橋藩、大久保藩で73町.9反、畠は同じく両藩で18町5反であり、これに八幡藩分120石の面積を仮に田の中クラスで推計換算すると1反あたり1.3石とすると120石の耕地面積は9町2反となる。合わせて田、畠と八幡分を加算すると全耕地面積合計は101町6反になる。明治期に入ってからの田畑の状況を大阪府地誌で見てみると面積が2倍以上になっている。
なお、星田では明治末期に星田新池が、また大正の始めに大谷新池が作られ、これらは時代的に後世のできごとであり、この耕地の増加には全く影響を与えていない・
税地 明治8年改正反別(大阪府地誌)
田 191町5反2畝25歩
畑 38町7畝10歩
また米の収穫高を見てみると、元禄3年の三藩庄屋の覚書以来星田村高は1535石八斗とそのまま、幕末まで続いているとされているが、明治23年の交野郡米改良組合の米収穫高では4,677石34とほぼ3倍に増加している。元禄期から後は星田大池の改修が進み、当然収穫高の増加になっていることが考えられるが、この地詰帳が文化五年であるとすると100年あまりの間、村高が増加していないのは、不自然におもえる。地詰帳とよく似たものに名寄帳がある。地詰帳は土地1筆ごとに記載された台帳であるのに対して名寄帳は、村役人が事務上の必要性から作られたもので人を中心に全ての土地やしきなどを取りまとめたものである。年貢の徴収はこれによって徴収されたとされてい
る。農家300余りで2100余りの筆数があれば、年貢の徴収は、個人あてまとめて徴収していたのであろう。隠田といって年貢逃れを厳しく扱っていたが領主側も零細農民を生かしておくために鍬下(開墾中の土地)として次回の検地まで徴収を伸ばすという措置もあったようであるが、これらの扱いは名寄帳の中であつかわれのであろうか。地詰帳では1反あたりの生産量は、上田で1石5斗。中田で1石3斗、下田で1石1斗とする場合が多いが、前記の明冶23年の米収穫高を耕作面積で除すると1反あたりの生産高は2石8斗であり、地詰帳の描く耕地面積、反当り生産量ともかなり低く、時代の進化や生産性を十分織り込んでいない面は否定できないが、検地の実施は、する領主にとっても受ける農民側にとっても困難な課題をかけており、その分名寄帳などで補正がなされていたのか実態はわからない。の総括に記載の通り市橋藩の1306石、八幡藩の120石、大久保藩の109石八斗で三藩合わせた星田村高としては1535石八斗であり、この地詰帳の村高は元禄3年の三藩庄屋の覚書と同じであり、延宝(1673~1684)は、元禄(1688~1704)よりも年号として8年先行しているため、元禄4年の覚書は、もし星田村で新検による検地が行われたとしても、当然これを織り込んだ上の覚書の締結
河内国交野郡星田村地詰帳から見た
星田の豪農・中農
地区の概要
地区の概要 1区 中川の上流部の西側 2区 中川の下流部の東西の流域 3区 星田村集落に近接し、東高野街道までの間の区域 4区1 深谷川(大谷新池)、長谷川流域 2 側田地区 5区 東高野街道(可所川)以西の区域 6区 星田村集落と垣内地区 |
豪中農家の地区別生産石高 |
単位 |
石 |
|||||
1区 |
2区 |
3区 |
4区 |
5区 |
6区 |
全区 |
|
喜兵衛 |
0.00 |
2.38 |
9.16 |
0.00 |
7.53 |
0.26 |
6.28 |
同 西 |
0.00 |
0.00 |
2.44 |
0.00 |
2.09 |
0.40 |
4.93 |
同 なべか |
0.00 |
2.10 |
4.05 |
0.00 |
1.85 |
0.12 |
8.12 |
喜右衛門 |
0.82 |
3.92 |
7.19 |
0.00 |
12.48 |
0.80 |
18.72 |
同 西 |
0.00 |
0.00 |
5.89 |
0.00 |
0.60 |
0.00 |
6.49 |
久右衛門 |
0.00 |
0.44 |
11.35 |
9.72 |
5.82 |
0.51 |
19.83 |
同 大谷 |
0.00 |
0.00 |
3.59 |
0.00 |
4.42 |
0.00 |
8.01 |
九郎右衛門 |
4.82 |
0.00 |
0.57 |
0.10 |
5.35 |
0.51 |
11.35 |
久三郎 |
0.00 |
1.43 |
6.27 |
0.50 |
3.27 |
0.16 |
11.64 |
久七郎 |
0.00 |
0.00 |
4.52 |
0.00 |
3.30 |
0.26 |
8.07 |
源 |
9.73 |
7.36 |
2.81 |
0.00 |
1.20 |
2.52 |
23.61 |
五郎兵衛 |
0.00 |
0.22 |
0.00 |
4.77 |
4.09 |
0.00 |
9.07 |
三郎右衛門 |
15.54 |
1.96 |
10.34 |
3.84 |
7.15 |
8.28 |
31.68 |
同 辻や |
0.00 |
0.00 |
6.72 |
2.30 |
5.99 |
0.44 |
15.44 |
三十郎 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
8.94 |
2.67 |
0.00 |
8.77 |
同大谷 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
2.84 |
新二郎 |
0.45 |
1.30 |
0.00 |
11.90 |
3.01 |
0.18 |
7.45 |
同 大谷 |
0.00 |
0.00 |
0.00 |
8.53 |
0.87 |
0.00 |
9.40 |
新右衛門 |
0.03 |
0.72 |
8.11 |
6.82 |
10.49 |
0.48 |
17.74 |
同 大谷 |
0.00 |
0.00 |
0.95 |
1.72 |
1.70 |
0.00 |
4.37 |
同 川 |
0.00 |
0.25 |
2.86 |
1.21 |
0.00 |
0.21 |
4.54 |
庄右衛門 |
1.58 |
4.23 |
2.10 |
0.00 |
0.42 |
0.00 |
8.32 |
茂右衛門 |
1.90 |
1.42 |
1.58 |
2.32 |
4.39 |
0.38 |
11.98 |
次兵衛 |
0.88 |
2.93 |
4.41 |
0.42 |
1.78 |
0.00 |
10.42 |
二郎兵衛 |
0.00 |
1.10 |
1.97 |
0.00 |
10.77 |
0.00 |
13.84 |
十兵衛 |
0.00 |
0.00 |
14.35 |
2.20 |
5.47 |
0.00 |
22.03 |
甚七郎 |
3.69 |
1.39 |
3.88 |
0.00 |
1.19 |
0.29 |
10.44 |
清三郎 |
0.65 |
4.01 |
0.92 |
1.42 |
1.72 |
1.39 |
10.11 |
清兵衛 |
2.56 |
3.19 |
2.54 |
0.00 |
5.70 |
0.00 |
13.98 |
善兵衛 |
0.00 |
0.58 |
4.44 |
1.56 |
2.20 |
0.10 |
8.87 |
善三郎 |
0.00 |
0.00 |
1.60 |
6.87 |
0.00 |
0.00 |
8.47 |
太郎兵衛 |
0.00 |
0.48 |
6.81 |
1.65 |
3.16 |
0.33 |
12.44 |
忠右衛門 |
12.74 |
1.47 |
5.56 |
0.00 |
0.00 |
2.13 |
21.90 |
忠三郎 |
0.00 |
1.10 |
2.52 |
0.00 |
0.51 |
0.26 |
4.39 |
中兵衛 |
1.30 |
5.18 |
5.51 |
0.00 |
6.94 |
0.26 |
19.19 |
長右衛門 |
0.26 |
1.93 |
0.00 |
6.27 |
4.79 |
0.20 |
7.69 |
同 大谷 |
0.00 |
0.65 |
0.00 |
3.36 |
1.75 |
0.00 |
5.76 |
長兵衛 |
1.09 |
1.83 |
10.00 |
2.73 |
1.08 |
1.00 |
17.73 |
半兵衛 |
0.00 |
0.00 |
4.63 |
0.63 |
32.12 |
0.33 |
37.71 |
半五郎 |
19.35 |
4.53 |
14.47 |
0.00 |
0.00 |
3.24 |
41.59 |
平右衛門 |
12.75 |
4.13 |
0.74 |
0.00 |
1.10 |
3.05 |
21.77 |
彦右衛門 |
0.86 |
0.00 |
9.66 |
0.00 |
4.08 |
0.76 |
15.35 |
彦兵衛 |
9.45 |
2.71 |
6.25 |
0.43 |
1.10 |
3.03 |
22.97 |
藤右衛門 |
2.91 |
2.38 |
1.23 |
1.30 |
2.78 |
0.12 |
10.72 |
仁右衛門 |
0.59 |
0.70 |
2.82 |
1.08 |
3.99 |
0.76 |
9.94 |
与右衛門 |
5.17 |
0.67 |
12.95 |
3.93 |
4.49 |
0.58 |
27.79 |
与兵衛 |
1.34 |
2.23 |
9.79 |
1.09 |
4.26 |
1.18 |
19.89 |
与三兵衛 |
0.00 |
0.00 |
5.24 |
1.03 |
4.77 |
0.18 |
11.22 |
又兵衛 |
0.00 |
0.12 |
1.53 |
0.00 |
4.85 |
0.19 |
6.69 |
西右衛門 |
0.65 |
0.00 |
5.10 |
0.72 |
3.42 |
0.32 |
10.21 |
六兵衛 |
0.00 |
0.92 |
1.98 |
0.00 |
5.80 |
0.16 |
8.86 |
111.10 |
68.93 |
204.87 |
82.24 |
189.23 |
34.20 |
690.56 |
豪農・中農とは
地詰帳に記載の星田の耕地の数は2138筆で 名請農家の数は,355軒で名請農家1軒あたり耕作田畠(屋敷数も件数で加算。)の件数は、5.5筆であるが、15筆以上の保有者を豪農・中農家とした。名前はすべて同じ名前は同一人とした。
今日の苗字と名前を使う中での名前は、重複して同名が多いが、当時は、ほとんどが苗字なしの名前だけであるが、幼名と親の名前を併用して親の名前を継承する場合が多く、案外同名が少ないのではないかとおもえる。
また例えば、三郎右衛門氏(以下.敬称を略。)の場合
三郎右衛門、
三郎右衛門(辻や)
三郎右衛門(小北)と3種類の書き方があるが、屋敷で三郎 右衛門(辻や)、三郎右衛門(小北)の両名の名で別々に年 貢を納めている場合は、別人としたが特に別の年貢を納めていない場合は、同一人とした。
「河内国交野郡星田村地詰帳」のページを追ってブロックをつくり区画番号をつけて作成した地図である。この原図は交野市史の交野市全図(昭和20年代頃まで星田村の土地登記などに使われていた小字の地図。)の上に天保14年星田村絵図記載の小字名や道、池などを記載して作成した。当時の広域交通路として東高野海道と山の根の道(山根街道)の2道のみが描かれている
東高野街道は、京都の東寺と高野山を結ぶ参拝道として発達してきた道で、当時の国道級の道であり、山根街道は、けもの道が起源とされ山の麓をはうように発達してきた山の根の道とも呼ばれ主要各地を結ぶ道である。両道とも傍示川より西側は農道として残っているのみで交通路としてはなくなっている。
星田の3領家と庄屋(元禄3年の覚書より)
市橋家領 家数 313軒 内役家 210軒 石高 1306石
無役家 103軒
八幡(善法寺)領 家数 9軒 内役家 6軒 石高 120石
無役家 3軒
大久保領 家数 10 軒 内役家 5軒 石高 109.8石
無役家 5軒
村中合
家数 332軒 内役家 221軒 村高1535.8石
無役家 111軒
書記載の庄屋名 市橋下総守殿下星田村庄屋 東 兵 衛
同 断 三郎右衛門
今井九右衛門御支配同村庄屋 半 兵 衛
八幡善法寺御支配同村庄屋 源左衛門
役家とは名請百姓で年貢の納税義務を負う者であり、自分の耕地を持たない無役家との割合2対1であり、無役農家の割合は
3分の1を占めるが、豪中農家の耕作地は、広域に及んでいて無役農家や使用人を使ってのことだろう。
市橋藩の庄屋東兵衛氏は、幼名を半五郎といい、地詰帳の半五郎のことであろう。これによると庄屋東兵衛家は、田、畠、屋敷すべてを含めて80筆の記載があり、すべて半五郎一本で、地名や屋号のついた別名はなく、石高42石で、1区、2区、3区、6区に集中していて4区、5区にはない。
市橋家の同役庄屋三郎右衛門氏は、石高で47石で一番多いが、三郎右衛門 辻やと地名の辻屋がついたものが15石あまりあり、6区の屋敷の中で、三郎右衛門と辻や三郎右衛門の双方が存在する。全区にわたるが、辻や三郎右衛門は、3,4,5区に集中し、地区別に使い分けしているようにも見える
今井藩後に大久保藩となるが庄屋の半兵衛は、38石で領地は上平池、堀の内や尾道など6区であるが、個人の請受地も6区に多い。
八幡藩の庄屋源左衛門氏については、地詰帳の源は源左衛門氏の幼名として、源と辻源、辻やの源は,同一人とすると24石あり、八幡藩の領域は、3区が中心であるが、個人の請受地としては、3区もあるが、八幡藩は荘園時代から豊臣時代など最も古い歴史をもち、古い水田地である1区、2区が多いのであろう
5反百姓出ず入らず
昔のことわざで五反歩の耕地をもっている百姓は、金が残りもせず、借金もせず、また他人の手も使わず内輪の手で足り、恰度とんとん
の経営であると言うことです。ただし自作農の場合で、小作の場合は、半分は地主のもので自分の収入は収穫の半分で2反5畝になる。
1反とはほぼ1ha(ヘクタール)で、1haは,100m×10m四方あるいは33m平方mである。
従って5反とは100m×50mの大きさである。
1反の田から1石の米がとれる。
1石の米は人1人が1年間養うに必要な量である。5人家族を想定すると5石必要でそのためには5反の田が必要である。
ざっとした計算である。
年一石の米を食べようとすると、第2次大戦後に食糧配給制度があり、事情が少し改善して1人2合7斥まできたが、腹いっぱい食べるためには一人3合配給が目標という時代があった。1日3合を365日食べれば年に1石8升5合になり、1石を超える。そのためには毎日朝昼夕食とも3杯飯を食べることになる。
人の1日取得カロリー1500カロリーを米食だけで取得しようとなるとこうなるが、今日副食が豊富であり、とてもこのようにたべられない。
明治期の田畑の耕地面積と米収穫高(石高)との比較
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地詰帳からみた星田村人以外の農民の耕作地
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資料及び参考資料
元禄十年星田村絵図(交野市市教委・交野市文化財事業団蔵)
天保十四年星田村絵図( 同)
星田村大絵図( 同)
河内国交野郡星田村地詰帳( 同)
交野市史( 同
堺県管下河内国第三大区九番領萬分之六図複写版
星田懐古誌上下巻ほか西井長和氏の著述
星田歴史風土記(交野市市教委・交野市文化財事業団刊)・まんだの和久田薫氏
の著述